気ままなつぶやきです


by kibouh1

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「唯一の被爆国」か

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新聞の戦争体験特集からです。

「空襲の音と光 思い出消えず 85

女学校2年の時、初めての田植え。ヒルに吸われました。麦踏みもしました。3年になると、学徒動員での工場勤務。父は満州(現中国東北部)なので、母と弟、4人を田舎に残して、福岡市の宿舎から工場にもんペに頭巾をかぶり、いり豆を持って歩いて通いました。忘れもしない619日夜の福岡大空襲。バリバリと機銃掃射の音と恐ろしい光 を浴びながら、布団とか持って、東公園に逃げました。静かになってから街の方を見ると、火の手が勢いよく上がっていました。恐ろしい夜でした。工場での仕事は飛行機のタンク製造。私は事務室勤務で、資材の調達を手伝っていました。友はドリルや、ハンダ付けをしていました。女学生が作ったタンクが役に立ったのか、疑問です。そうしているうちに、 815日が来て、玉音放送を聴きました。兵隊さんは土の上に座り、手を突いて頭を垂れ、涙を流していました。男子学生や女学生はただ、ぽか一んと突っ立っていました。力が抜けたようでした。再び学舎に戻り、卒業できました。戦争が終わり、良かったです。でも、戦争の思い出は消せません、死ぬまで。」(2015717日西日本新聞)

核廃絶に日本政府が消極的なのは困りますが、原発もまた核開発と連動しているから廃止しないと語る政治家もいます。これが「唯一の被爆国」の実態です。そして、被爆者運動も転機を迎えているという。新たな運動形態の模索が続いているようです。

「【見解】原爆はローカルニュースではない 社会部・森井徹

◆被爆地の外の被爆者 

 被爆者がいなくなったら、原爆の被害は次世代にどう伝わっていくのだろうか。

 長崎総局で原爆報道を担当していた数年前、こんなことを同僚とよく話した。10年も20年も先のことだと思っていたが、実はその日が来るのは、そう遠くはないのかもしれない。被爆地の外では。

 この夏、九州にある日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の傘下の被爆者団体に取材すると、2005年に132あった団体は、10年間で100まで減っていた。活動を続ける団体からも危機感に満ちた声が寄せられた。

 「あと2、3年が限界です」「肉体的、資金的な行き詰まり」「全員体調が悪く、年1回の総会も不成立。解散する以外にありません」

 解散の理由の多くは、事務作業の担い手がいないこと。会員が数十人いるのに役員をできる人がいないため解散を選んだ事例もあった。被爆体験を語ってきた団体が消えれば、地域や学校でその声を直接聞く機会は減っていく。

 乱暴な言い方だが、被爆者はもう、若い世代のサポートなくして被爆者としての活動ができないほど年老いた。

 福岡に転勤して3年半。少しずつ続けてきた原爆の取材を思い返すと、長崎では知らなかった被爆者の現実に出合っていたことに気付く。福岡の団体では被爆当時0歳の世代が会長に就いた。鹿児島では被爆2世が副会長と事務局長を兼務している。被爆2世を正会員に加える団体も増えてきた。原爆に関心が集まる地域ではないからこそ、切実さは際だって見えた。

 ただ、こうした動きはほとんど記事にしてこなかった。問題意識を持っているつもりだったが、「原爆イコール広島、長崎、8月」という固定概念から抜け出せていなかったのだと自省する。

 原爆を題材にした本や漫画、映画はたくさんあり、「もう知っている」と関心のない方もいるだろう。私は、今なお外交カードとして使われる核兵器は古い問題ではなく、その被害者たちの言葉は色あせていないと思う。

 被爆者がいなくなったら-。いつかは被爆地もこの課題と直面する。原爆は長崎、広島のローカルニュースではない。「唯一の被爆国」に暮らす私たちが共有すべきテーマではないだろうか。=2015/09/25 西日本新聞朝刊=」


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by kibouh1 | 2015-09-30 06:38 | 平和を | Comments(0)

子どもの疑問

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「(ひととき)4歳児の疑問に… 2015921日朝日新聞

 仕事帰りに息子2人を保育園まで迎えに行き、帰宅後、慌ただしく夕食の支度をしていると、4歳の長男がガスレンジの火に「ふー」と息を吹きかけた。2歳の次男もまねをする。

 危ないからやめなさいと言おうとすると、「ふーってしたら青いのが赤くなった!! 何で?」と長男から聞かれた。答え方を思案していると、次は鍋が噴きこぼれた。「また出た。さっきよりも赤いのが大きかったよ。何で?」と追加の質問。「息を吹いたりお鍋の水がこぼれたりすると温度が少し下がるから、青い炎が赤い炎になるのかな?」と答えてみたが、長男は納得できない様子だ。

 夕食の準備を中断し、共に理系の義兄と実兄、教師の実姉に電話で助けを求めた。一生懸命に答えてくれるも、「燃焼が」「酸素が」などと難しい言葉ばかり。4歳児にわかるように答えて!と頼むと皆、頭を悩ます。そんな様子に長男は何だかうれしそう。その日は予定していたサラダも作れず、いつも夕食後に帰宅する夫が帰ってからの遅い夕食になった。 前回は火にかけると卵がなぜ固まるか。前々回はアサリの足ってどこ。長男の質問はまだまだ続きそう。看護師 32歳」

次の回答にも子どもは分からないというのか。自分が選んだのに・・。正確には自民党が選んだのですが・・・。

「毎日新聞調査:首相在任期間「任期より短く」半数 20150920日 

 19、20両日の緊急全国世論調査では、今月の自民党総裁選で無投票で再選された安倍晋三首相にどれぐらい首相を務めてほしいかを聞いた。それによると「任期の3年より短く」との回答が50%で最も多く、「3年後の2018年9月まで」が30%で続いた。「任期の3年より長く」は10%だった。」


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by kibouh1 | 2015-09-29 06:36 | 政治・行政 | Comments(0)

テレビ体操もあります

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大分前の記事ですが、18歳投票の問題の背景を考えさせられます。

「投票に行けない18歳の少女たち

ほしおか十色

選挙権年齢を「20歳以上」 から「18歳以上」に引き下げる改正公職選挙法が先日、成立しましたね。私が中洲で出会う少女たちは、選挙権を得ても投票には行けないと思います。自分が今を生きることで精いっぱいだからです。 私も少女時代はそうでした。彼女たちに共通している のは、大人への不信と社会に対する諦めです。自分の1票で世の中を変えよう、なんて想像もできないと思います。

また、選挙制度の仕組みを知る機会にも恵まれていません。中学卒業や高校中退の子たちがほとんどで、選挙に関する教育も満足に受けておらず、家出するほどの家庭環境なので、投票に行く親の背中を見て「いつか私も投票に行くぞ」と感じたことは、あまりないでしょう。そんな子たちが政治に関心を持つようになるのは、安心して暮らせる環境に身を置いてから、だと思います。

今後は民法や少年法につい たて、成人年齢を20歳から18歳に引き下げる議論が活発化しそうとのことですが、私は不安です。以前書きましたが「未成年」「少年」だから受けら

れる公的支援があります。私が福岡県少年サポートセンターに救われたのも、10代の「少

年」だったから。年齢引き下げとなれば「大人なんだから甘えるな」と見捨てられる子が増えるのではと心配になるのです。成人年齢の引き下げが「誰のためになるのか」を考えて、慎重に議論してほしいと思います。(ホステス、福岡市)」(2015627日西日本新聞)

選挙権を行使できない事情は分かりますが、この先の人生に政治は深く関係していきます。例えば、老後の生活など想像もできないでしょうが、祖父母がいれば感じてみてください。

「(ひととき)母と私のラジオ体操  2015923日朝日新聞

 4年前、故郷の熊本で87歳の母は、弟の協力をえてラジオ体操を日課にしていた。千葉に住む私も同じ時間、南西の空、熊本の方を向いて毎日おつきあいした。

 父亡き後、20年以上農業を続けた母は弟家族と同居していたが、数年前から認知症が進んでいた。

 「ラジオ体操があるけん、朝起きが楽しみ」と、底冷えの厳しい暗い冬でも、若い頃からラジオ体操を欠かすことはなかった。

 体操の後、すぐに私は1分電話をかける。「食欲はありますか」「食欲はありますよ」「気分はよかですか」「気分はよかですよ」と、母の返事はおうむ返し。言葉が出にくい母のプライドを損ねないように、答えやすい質問を工夫しながら、2年近く毎日続けていた。

 帰省の折、弟が「このごろ認知症が軽くなって明るくなった。でも、『トモ子は電話でおんなじことばかり聞くから認知症じゃなかろうか?』と母が心配している」と笑った。

 91歳になった母は今、実家近くの施設で機嫌よくお世話になっている。南西の空に思いをはせながら、私は近所の人と公園でラジオ体操を続けている。 66歳」

 私は、Eテレの朝6時25分から10分間のテレビ体操を続けています。


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by kibouh1 | 2015-09-28 06:14 | 高齢者 | Comments(0)

「今主義」

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「共産入手の文書、防衛省が認める 12年、沖縄での共同訓練

2015911日朝日新聞

 防衛省の河野克俊統合幕僚長は10日の記者会見で、自衛隊が2012年、離島奪還を想定し、沖縄県内の米軍基地や周辺水域で米軍と共同の対ゲリラ戦訓練や上陸訓練を行うことを検討していたことを示す内部文書があることを認めた。

 文書は共産党の穀田恵二国対委員長が入手。民主党政権時代の12年7月に統合幕僚監部が作成したとされる。沖縄の米軍基地13施設と周辺2水域での訓練内容が記されている。対ゲリラ戦訓練を北部訓練場(国頭村、東村)で、降下訓練や離着陸訓練などの特殊作戦を伊江島補助飛行場(伊江村)で、上陸訓練はキャンプ・シュワブ(名護市、宜野座村)を含む6施設で検討していた。こうした共同訓練は現行法制でも可能とされている。

 防衛省や自衛隊の内部文書の流出が相次いでおり、防衛省幹部は「『まだあるのでは』とピリピリしている」と話す。」

なし崩し的に実施されているのでしょう。だが、真相は明らかになったか、新聞では分かりませんでした。自衛隊のトップがアメリカに安保法制の実施を確約しても、文民統制の話にならないのは、軍の暴走ではないか。それも有耶無耶です。今が過ぎればいいというのでしょうが、この先になにがあるのでしょうか。

姜尚中氏は次のように今の日本をとらえています。

311日以降の日本には、有象無象の否定的な感情を克服して、とにかく人を助けたいとか、人に深い哀れみを持つとか、そのような本来人間がもっていたであろう自然の声がたしかに出てきていたと思います。私はそこにとても感銘を受けたし、それがもっと社会に広がって、もっと制度化されて社会に定着すれば、日本は変わるのではないだろうか、変わるかもしれない、というある種の予感を持ったことはたしかです。

しかし、まもなく3年を迎えようとする今、どこが変わったんだろうと思っている人は多

いと思います。

()

私は10年でその意味が見えてくると思っています。震災が起きたときに10歳であった福島の被災地の子供たちが却歳になったときに、どのような状況になっているのか。

まだ今は、とにかくみんな今日のことしか考えていない。今日の苦労は今日一日で充分 だ、という言葉はイエス様の教えにありますが、仏教でもそういう教えはあると思います。あまりにも今のことしか考えない。私はそれを「今主義」といっています」(『日本人の度量』)


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by kibouh1 | 2015-09-27 06:52 | 平和を | Comments(0)

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戦争体験特集からです。

17歳の特攻死 沖縄で兄思う 78

沖縄戦没者追悼式に出席した。会場の糸満市・平和祈念公園行きのバスに乗ろうと歩いているとセミがうるさいほど鳴いている。沖縄の623日は梅雨も明けていた。70年前も、こんな暑さだったのだろう。那覇から1時間足らずで、車窓から海が見えてきた。うっそうと茂る夏草。 毎年のことながら、今にも特攻隊で戦死した兄が、そこからはい上がってくるような気がする。わが家は子だくさんの貧乏。長男の兄に期待と希望を託し、長崎・対馬から山口・下関の学校ヘ。あの時代、親は一大決心だったと思う。コメに換算して何俵分の仕送りと母が話していたのを覚えている。それが「戦争に行かないと日本人ではない」と言って学徒動員。17歳の若さで沖縄の地に散った。母は白木の箱を抱いて「何にも入いってない」と泣き崩れた。長崎県出身の戦死者が刻まれている「平和の礎」の入り口で、花を買って、兄の名前の前に供えた。」(2015918日西日本新聞)

戦争に巻き込まれていいことがあります。ヨーロッパの難民を見てください。これが戦争の本質です。

「安保法案、読者からの声 「国民は理解し反対」 「戦争抑止には必要」

安全保障関連法案をめぐり、西日本新聞に読者から多くの投書が寄せられている。九州でも若者や学者など幅広い層で法案反対の輪が広がるなか、与党は参院審議を急ぎ、18日までに成立させる方針だ。日本が安保政策で岐路に立つ今、あなたはどう考えますか。

 「国民はある程度、法案を理解していると思う」。世論調査では、法案に関する政府の説明が不十分とされるが、福岡県飯塚市の男性(73)は「理解しているからこそ、法案が危険で、自衛隊が米軍と一体化して戦場へ派遣されると心配しているのだ」と書いた。

 13日には、法案反対の学生団体などが九州各地で一斉デモを計画している。

 1926年生まれの同県太宰府市の男性(89)は「幼少期は戦争に次ぐ戦争だった。14歳で陸軍に志願し、特攻も覚悟した」と手記を寄せた。「私の痛切な体験から言うと、法案に戦争の危険を感じる若い人たちの行動は当然だ」

 法案は他国軍への軍事色の強い後方支援を可能にする。佐賀県唐津市の男性(81)は「犠牲者が出るのは前線だけではない。70年前も兵士の家族がいる日本が爆撃され、原爆まで落とされた。危険なのは前線も後方も同じ」と指摘した。

 「国民のためと言いつつ、国民の多数が反対し疑問に思う法案を強行採決しようとしている」。長崎市の男性(69)は「『国民はすぐ忘れる』と耳を疑うようなことを権力者が言っている」と、成立を急ぐ政権をけん制した。

 一方、福岡県朝倉市の公務員男性(57)は「反対のための反対ではなく、国民の生命、財産を守るための必要性を議論すべきだ。日本の軍事大国化は望まないので、日米同盟強化は条件付きでやむを得ない」。(以下略)2015/09/13 西日本新聞朝刊=」


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by kibouh1 | 2015-09-26 06:12 | 平和を | Comments(0)

聴く耳がない人たち

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「モンク 最相葉月

他人の猫にはあまり関心がない。他人が自分の猫について書いたものなどすすんで読もうとも思わない。百閒先生とて例外ではない。

ではうちの猫を溺愛しているかというと、そうでもない。防災訓練の時に連れて逃けるのをすっかり忘れてしまったぐらいだ。ベッドなど与えていないし、ゼリー仕立てとか、宗田ガツオ入りとか、スペシャル系の猫缶をやったこともない。そもそもいつものごはんじゃないと、食べてくれないので。ペットは家族だという人がいるが、あまり理解できない。ペットはペット、人間の所有物であって子どもではない。だから、動物病院で「モンクちゃんのママ」と呼ばれた時は思わずのけぞった。カルテには「OOモンクちゃん」とある。○○はうちの苗字。この業界、どうなってるんだ。(以下略)」( 201599日西日本新聞)

わが家の老犬の病院に行くと「○○ジロちゃん」と呼ばれます。家族の一員という扱いなのでしようが。

福岡での放送によれば、辺野古の協議で、北部の基地の縮小を政府は言いだしたという。沖縄県は、銃剣で土地を取り上げられたものであり、沖縄から基地を望んだわけではないとする姿勢は一貫しています。

「基地必要なら全体で負担を 82

沖縄県民だけに戦争の悲惨で残酷な体験をさせて、自分たちは対岸の火事ぐらいにしか思っていない国民が多いような気がします。もっと真面目に考えようではありませんか。戦時中、地形が変わるほどの大量砲撃、逃げ込んだ…ガマの中に火炎放射、手りゅう弾自殺、崖からの投身自殺。現実に起きたのです。

沖縄は本土の盾となったのです。もちろん、本土も原爆などで焦土と化しました。が、沖縄県民は筆舌に尽くしがたい体験があるから、標的になる基地は要らないと言っているのです。基地を造らないなら、交付金も減額する。何ということか。むしろ増額して、県民の一人一人が平和に生活できるよう知恵を出し合うのが政治の基本でしょう。基地が必要なら、日本全体で負担すべきです。私見ですが、日本海に面した、例えば山口県。国の地元ですから、異議は少ないのでは・・・と愚考します。」(同前)

ブラタモリでタモリさんが福岡の人は過去のことを忘れ、新しいものに飛びつくと言っていましたが、政権もまた同じなのでしようか。


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by kibouh1 | 2015-09-25 06:24 | 沖縄 | Comments(0)

産業遺産を優先する国で

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産業遺産を優先する国で



長崎の教会群と産業遺産群が国内でリストされ、現政権は産業遺産群を優先した。個人的には、教会群が文化遺産としてふさわしいと思いました。



「マリア像拒否伝承文化失う 53



長崎の教会群とキリスト教関連遺産が世界文化遺産ヘの登録を目指している。そうした中、長崎県南島原市が「政教分離」を理由にマリア像の寄贈を断った。長崎の歴史からキリスト教や弾圧・迫害の歴史を取り除いたら、それはもう文化でも、遺産でもなくなります。もし、キリスト教の歴史や文化的作品を除外するなら、長崎の歴史における素晴らしい伝承文化のモチーフを失ってしまうでしょう。世界遺産が世界遺産でなくなってしまう。「島原の乱は、政治が宗教を弾圧した象徴」であり、政教分離を正しく理解する上で欠かせないものです。行政が長崎の歴史からキリスト教に関わる伝承文化の受け入れを排除してはいけません。「政教分離」の妨げとして一面的に拒否できるような話ではないからです。松本南島原市長ヘ思慮ある再考を求めます。」(2015917日西日本新聞)


こうした行政の硬直した思考の背景に、強制労働を認めようとしなかった日本政府と水脈がつながっていないかと不安に思ったのですが。はずれていると思いますが。



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by kibouh1 | 2015-09-24 06:48 | 社会 | Comments(0)
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「コラム・聴診記(医療班から)

予防医療の発展期待

 九州大病院(福岡市東区)が病気の早期発見・早期治療という予防医療の重要性が増すとして2006年9月に開設した先進予防医療センター。「がんドック」「心臓ドック」「脳卒中ドック」や、女性特有のがんや骨粗しょう症などを調べる「レディースドック」を用意し、09年1月には全国的にも珍しい「アルツハイマードック」も追加した。その後、どうなっているだろうと取材してみると、あれれ...。2年前の13年9月末で閉鎖していた。

 病院総務課によると、閉鎖の理由は「利用が低調だった」という。利用件数は稼働7年間で6132件(うちアルツハイマードックは283件)。平均すれば年間千件にも満たない数字だ。健康診断を実施する機関は他にも各地にあることから、市民は「九大病院は高度医療など別の役割にもっと力を入れてほしい」と思っているということか。

 ただ予防医療は、健康寿命(健康上の問題で日常生活が制限されない期間)を延ばしたり、医療費や介護費を抑制したりする手段として、発展が期待される分野であるのは間違いない。優秀な人材が集まる九大病院が閉鎖にめげず、予防医療にこれからも関心を持ち続けることを願いたい。=2015/09/18 西日本新聞朝刊=」

ニーズがないのでしょうか。

次の話には救われる気がしました。そして、調べると私が育ったド田舎にあるという。

「【「空白」を生きる 若年性認知症】<1>高齢者施設になじめず

 最初の異変は2002年、61歳のとき。福岡県八女市の原口義昭さん(享年73)は妻トシ子さん(70)と営んでいた保険代理店の仕事で、通い慣れた客の家に行けなくなった。同じ用件で何度も電話し、客から苦情が来るようになった。

 受診した脳神経外科では「年相応のもの忘れ」と言われたが、異変は続いた。別の総合病院で「若年性アルツハイマー型認知症」と診断された。定年なく働けると思っていた仕事は人に任せ、5年で廃業した。

 ステテコの上にパンツをはく。ゴルフ場で他人の下着を身に着ける。それまでできていたことができなくなっていく。自身の変化を察した義昭さんは「これからどうして食べていくか」と声を上げて泣いた。

 介護保険サービスを使えるよう、要介護認定を受けた。デイサービス(通所介護)施設を3カ所ほど見学したが、どこも「親のような年の人ばかり」。トシ子さんは「まだ何でもできるのにかわいそか」と思い、体は元気な義昭さんも「そんな所に何で俺が行かなんと」とあらがった。

 体力もプライドもある若年性認知症の人は高齢者向けの介護サービスになじめず、初期段階では居場所を見つけづらい。結局、トシ子さんは2年間、義昭さんを1人で世話した。

 「今までちゃんと生きてきて、おかしなところを見られたらかわいそう」と、近所にはひた隠しにした。トシ子さんの髪は抜けて坊主になり、眉毛やまつげまで抜け落ちた。介護を抱え込んだストレスだった。

 若年性認知症は進行も早いとされる。義昭さんは家にいるのに「家に帰りたい」と頭を下げた。リビングの隅で用を足しているのを見たとき、トシ子さんの頬を涙が伝った。

 06年、ようやく若年性認知症に理解のある社会福祉士川島豊輝さん(41)につながった。トシ子さんが「仕事に行こう」と川島さんが働くデイサービスまで送迎し、川島さんは「掃除しましょう」「今日の仕事は畑の草抜き」と職場を装って対応した。約1カ月で「よかとこ」となじんだ。

 それでも、次第に暴力が現れた。排せつ介助をする職員に殴りかかり、自宅でも靴を履かせるトシ子さんの頭をパンプスのヒールで殴りつけた。トシ子さんは逃げやすいよう夜も玄関の鍵を開けていた。川島さんが「介護される現実を受け入れられないから、プライドを守ろうとしていたのだろう」と受け止めた暴力は1年半ほど続いた。

 川島さんは11年、若年性認知症の人を積極的に受け入れる「デイサービス絆」(福岡県筑後市)を開設。最期まで義昭さんに寄り添った。

 義昭さんは発症から7~8年で言葉が出なくなり、穏やかになった。そして今年6月。大好きなベンチャーズの曲が流れる中、トシ子さんや娘、孫、川島さんに見守られて旅立った。トシ子さんは今、「悲しいこと、悔しいこともたくさんあったけど、いい人に出会えて精いっぱい介護できた。もっと多くの人に若年性認知症を理解してほしい」と振り返る。

 65歳未満で発症する若年性認知症。若くして発症するため、病気に気付かずに症状が進んだり、社会的支援が受けられずに孤立したり、仕事を失って経済的に困窮したりする「空白の期間」が課題となっている。若年性認知症の人とその家族を追った。=2015/09/17 西日本新聞朝刊=」


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by kibouh1 | 2015-09-23 06:49 | 高齢者 | Comments(0)

体験が語るものは

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戦争体験特集からです。

「骨つぼに残る父の爪と頭髪 83

昭和17年、私が国民学校5年の時、おやじは召集でパプアニューギニア・ウェワクヘ配属された。着任して間もなく「軍事郵便」と朱書きされた便りが届いた。発信地名はなかった。その後、昭和181223日戦死の公報が入るまで、母や私宛ての便りは10通以上あり、今でも大切に保存している。 遺品としては勲章、軍隊手帳、昭和6年の軍隊日記があり、手元に残している。 ただ、一番大事な遺骨が帰還していない。おやじは出征前日、万が一を考え、爪と頭髪を母に託していた。骨つぼに納めているが、寂しい限りである。おやじの戦死で家庭生活は塗炭の苦しみを味わった。私たちと同じ境遇で苦労された家族も多くいたと思う。全て戦争が招いた悲劇。どんな理由があろうとも人が人を殺りくする行為を当然とする戦時教育は絶対許されない「犯罪」である。」(2015710日西日本新聞)

「望郷の思いを込めた文に涙  85

17年前、グループ旅行で鹿児島県知覧町(現南九州市)を訪れた。武家屋敷の続く静かな城〉下町。思えば、先の大戦末期に、特攻基地として若き兵士が飛び立ち、南の海に散った地である。「特攻観音」には、1026柱の名前が記されている。銅像「とこしえに」も建立されていた。

平和会館には、国を思い、父母を慕い、若くして散った勇士たちの遺影、遺品などが展示されていた。幼さの残る19歳前後の少年の写真や手紙。「お母さんお母よさん、元気でいてください。出陣していきます」と望郷の思いを筆に託した文面。ただただ、涙が止まらなかった。出陣前の時間を三角兵舎でどんな思いで過ごしたのか。「子犬と遊ぶ若桜」の,笑顔がたまらなく切ない。同年代で戦争を体験し、生死の境をさまよった私には、つらいひと時だった。真っ赤に咲いていたハイビスカスの花が目に焼きついて離れない。

〈この道を征きて還らず仏桑花〉」(同前)

戦地の中国人 友として交流 92

23年前旅立った夫から、 5年間の中国大陸戦線での経験などを聞かされていました。昭和19年、約30万人の日本軍は3方向から湖南省の長沙を目指して進撃。一時長沙を占領し、ベトナムとのの鉄道も復旧しました。が、米軍戦闘機から激しい反撃を受け、戦闘機すらない日本軍はやむなく撤退しました。洞庭湖付近に差しかかったとき、10台編成の日本軍

5番目の車両を運転していた夫が地雷に触れ、吹き飛ばされました。28人の通信兵は全員戦死。夫だけは4日目に意識が戻り、奇跡的に助かりました。その後、河南省・洛陽で

終戦。その街では、中国人らと友人同士の交流を続け、日本への帰国が決まると、彼らは宿営地まで来て「ありがとう」と言って、涙を流したそうです。日中友好は民間人の交流 のが鍵を握ります。」(同前)


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by kibouh1 | 2015-09-22 05:14 | 平和を | Comments(0)

戦争が日常の中に

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「花時計

「拉致から9カ月。安否を含め有力な情報は入っていない」。3年前 にこの欄で、パキスタンで武装集団にさらわれた イタリア人の男性を紹介した。かつて広島の大学で、平和について考える講義を隣席で受講していた友人だった▼今春、突然続報が飛び込んできた。米国政府の発表を伝える記事に目を疑った。「ドローン攻撃により死」。洪水の被災者支援をしていた彼は、国境付近で国際テロ組織の人質となった。そして、今年1月、テ口組織を狙った米国の小型無人機「ドローン」を使った軍事作 戦に巻き込まれ、帰らぬ人となったという▼核や通常兵器の廃絶を切望していた彼が、どうしてこんな最期を遂げねばならなかったのか。陽気な笑顔を振りまく彼の遣彰に、平和への祈りを新たにしたい。(横田理美)

201595日西日本新聞)

戦争が暮らしの中にある国があります。日本はどうなるのでしょうか。

そして、沖縄の声も無視でしょうか。

「届かぬ沖縄の怒り

米兵の少女暴行事件20

普天間返還決着見えず

「少女はどんなに恐ろしかったか。激しい怒りしか 覚えていない」。宜野湾市 の会社員福田久美さん(49) は当時を振り返り、肩を震 わせる。当時3歳と1歳の子を持つ親として声を上げずにはいられず、事件翌月の199510月に宜野湾市で聞 かれた.「県民総決起大会」に駆け付けた。参加者は主催者発表で約85千人。 熱気に包まれた会場には、 子どもを連れた母親たちの姿が目立った。

「またか・・・」。当時知事だった大田氏(90)は、事件の一報を聞き、沖縄で絶えることがながった米兵の事件、事故を思い浮かべた。大会で「少女の尊厳を守れなかったことをおわびしたい」と謝罪。終戦から半世紀にわたり、沖縄が強いられてきた基地負担の理不尽さを説いた。大会に先立ち大田氏は、米軍基地の強制使用に必要な代理署名を拒否。国側が職務執行命令を求める訴訟を起こす事態に発展し、法廷闘争は8カ月で県側の敗訴に至った。大田氏は「事件が署名拒否の決意を強めた。裁判には負けたが、基地問題を全国に知ってもらうきっかけになった」と自らの決断の意義を顧みる。普天間飛行場の隣。太平洋戦争末期の沖縄戦であつた集団自決を描いた絵画を展示する「佐喜真美術館」は事件後、来館者が急増したという。館長の佐喜真道夫さん(69)は「事件は県民の意識をがらりと変えた。基地問題の根源にある沖縄戦を見直そうという動きが広がつた」と変化を証言する。(以下略)(同前)

沖縄のことを私たちはあまりにも知らないのではないか。あるいは、知らされていないのかも。


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by kibouh1 | 2015-09-21 06:00 | 平和を | Comments(0)