気ままなつぶやきです


by kibouh1

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所得格差が広がるばかり

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アメリカの貧富の問題を書き続ける堤未果氏は次のように指摘しています。

「二OO年に最高裁で出された、企業献金の上限を撤廃する「市民連合判決」は、コーポラテイズム国家アメリカの、最終仕上げだった。政治は完全に企業に買われ、選挙は「投資商品」の一つになり、国民を苦しめ大企業と金融業界の株主利益をあげる法案が、民意を無視して次から次へと通過する。同じ二OO年にはついに、アメリカの富裕層上位四OO人の所得は平均労働者の二二六O倍となり、上位一パーセント(所得金額三六万九六九一ドル以上。約三七OO万円)は全米の約一九パーセントを、上位一Oパーセント(所得金額一一万六六二三ドル以上。約一二OO万円)は全体の約四五パーセントの所得を得るほどに、経済格差が広がった。」(『沈みゆく大国アメリカ』)

日本の大企業のトップの収入は増えるばかりですが、どうなのでしょう。トヨタは月別の成果主義による賃金査定をするという。懸念を示しながら労働組合があっさり受け入れる構造が労働者を苦しめているのではないか。

保険業界の再編も進んでいます。ですが、情報公開からは遠い。利益第一ですからね。

「気流

損保会社から自宅の火災保険契約の更新案内が届いた。いつも前回と同内容で更新してきたが、今回は1年更新でなく、5年契約にした。10月以降は保険料が改定され、台風被害など自然災害が多い九州の一部は約3割の値上げと報じられていたからだ。保険会社は都道府県別の保険料改定率を公表していない。建物構造などで変わるからだ。10月から値上がりするから、私のように駆け込みで5年あるいは10年契約がお得な例もあるはずだが、 更新案内にはそんな説明はない。聞けば答えるということか、営業社員は対面で説明しているらしい。損保各社が参考にする損害保険料率算出機構の改定率の例をネットで見た。福岡県は鉄筋マンションで24%、木造住宅で28%の値上げだ。損して得とれ。あと1カ月。各社は負担増となる九州での告知に努めてほしい。」(2015827日西日本新聞)


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by kibouh1 | 2015-08-31 06:08 | 働く | Comments(0)

知らなかった人

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新聞の戦争体験特集からです。

「晩餐を終えて 特攻機見送る 78

「僕、19歳だよ」の声が今でも聞こえる。昭和20年、 8歳の時の悲しい思い出です。当時、台湾・東勢に住んでいました。家の前に軍隊の施設があり、建物の裏は広い空き地でした。学校から帰ると、家の前の道路でよく遊んでいました。あるとき、子どもたちを見詰める若い兵士に気づきました。色白の方で「おしろい付けてるの」と話しかけると「そんなもの付けてないよ」と大笑いになり、仲良くなりました。後日、夕食に招待されました。彼は特攻隊で、最後の晩餐とも知らずに、私は大喜びでした。話し声もほとんど聞こえない静かな夜でした。

翌朝、校庭には先生や友達が集まっていました。やがて上空を旋回する飛行機を見送りました。はっきりとお顔が見えました。純粋で純情、夢も希望も全て奪われて散っていった若い命。戦争ほど、むごいものはありません。」(2015828日西日本新聞)

特攻では「永遠のゼロ」の原作者が安倍政権のブレーンで、戦争法推進の立場であり、それで騙されたという人もいます。それは、特攻を純粋な愛国者という面から見ているからだと思います。強制された死という面からも見ていく必要があるのだと思います。

最相葉月という人も知りませんでしたが、「ナグネ 中国朝鮮族の友と日本」というルポでは、特別の大きなドラマがある訳ではないのですが、日中の関係が個人を通して見えてきます。西日本新聞で連載が始まり、興味深く読んでいます。キューリー一家の下で働いた日本人のことはいつか単行本になるのでしょうか。

「山田延男さん 最相葉月

ラジウムの発見などで知られるマリー・キューリーに日本人の弟子がいた。東京帝国大学航空研究所の研究者、山田延男だ。関東大震災で研究所が焼失した翌月、政府から仏ラジウム研究所(現・キューリー研究所)に派遣された。

数多あるキュリー伝には登場せず書かれていてもほんの数行程度なので、 日本でもほとんど知られていない。山田は放射性物質の放射線量を測定する研究に従事し、マリーの娘イレーヌの共同研究者でもあった。イレーヌは山田が見事な放射能検出器を発明したことをマリーに手紙で報告している。イレーヌと夫ジョリオのノーベル賞受賞の立役者の一人といっていいだろう。だが、渡仏から三年も経たぬうちに体調を崩して帰国。脳腫瘍と診断されたが判然とせぬまま、三十一歳の若さで亡くなった。数年前、長男で薬学者の光男さんから山田に関する資料をいただいた。幼かった光男さんに父親の記憶はない。のちに再婚した母親は婚家を気遣って光男さんに父親の話を一切しなかったため、自分はこのまま父親のことを知らずに一生を終えるのだろうと思っていた。ところが一九九五年、七十二歳になった光男さんのもとにキュリー研究所の古文書館長から手紙が届いた。「山田延男はラジウム研究所に来た最初の日本人研究者」とある。驚いた光男さんは父親の足跡調査を開始した。写真や論文、放射能に汚染された旅券ケlスが見つかった。死因はキュリー夫妻が発見したポロニウム210などを扱う中で、眼底から脳にかけて放射線を長時間浴び続けたことによる放射線障害と判明した。放射線研究に従事した日本人初の悲劇だった。

山田の実験風景を撮影した写真を光男さんに見せていただいた。作業服を着て素手で器具をさわる姿が痛々しい。まだ、たった三十一歳だったのだ。それでも、父親の三倍近く生きた光男さんは、「ル!ツ探しに一つの成果が得られてうれしい」とおっしゃった。(ノンフィクショシライター。挿絵は佐藤ジュンコさん)(同前)


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by kibouh1 | 2015-08-30 06:46 | 歴史 | Comments(0)

宗教的無意識

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詩人の岡田哲也氏は詩の時評で次のように述べています。

「暑いさなか、蝉時雨にうたれていると、脳味噌が蕩けてゆきそうです。そのくせ八月には、自分が生きてい来た尻尾というか、生きている根っこのようなものを振りかえります。甲子園の高校野球やお盆、そして敗戦記念日も手伝ってのことでしょうか。今は盆も、かつての薮入りではありませんが、八月になりました。初盆の折には、お墓に提灯を下げてそこでお迎えの宴を張ったり、送り火を焚いたり精霊流しをしたものでした。私たちの心の底には、死は不浄なものだというより生者も死者も同じだという、思いが、かすかに流れている気がします。神や仏以前の宗教的無意識と申しましょうか。むろんこんな考えとは、当節流行らなくなりました。しかし逆に、お盆やお正月は、私たちがふだん忘れているものや抑えつけているものが間歇する日なのかもしれません。この風習が、お国ぶりというものでしょうか。それとも極東の島国での、自然というものでしょうか。(以下略)」(2015826日西日本新聞)

生者も死者も同じという意識があるのでしょうね。それでも、俗物的な生者にとっては厄介なものですね。株なんかなくても企業活動はできないのでしょうか。無茶ぶりか。

「アベノミクスにも暗雲 急な円高、見通せぬ好循環 世界同時株安

2015826日朝日新聞

 世界同時株安が25日の東京市場でも続いた。今後も行き場を失ったマネーが円相場に流れ込んで急速に円高が進めば、持ち直しつつあった日本経済が腰折れしかねない。安倍政権が掲げる経済政策「アベノミクス」も、無縁ではいられない。

 アベノミクスは、大規模な「金融緩和」、公共事業などの「財政出動」、規制緩和などを通じた「成長戦略」の「3本の矢」によって、日本の景気回復とデフレ脱却をめざす政策のパッケージだ。

 「第1の矢」では、日本銀行が金融市場から国債などを買い、代わりに大量のお金を市場に流し込んだ。市場にお金があふれて金利は低下。円安も進み、2012年12月の第2次安倍政権発足時に1ドル=85円台だった円相場は、今月中旬には125円台をつけた。円安の恩恵を受け、トヨタ自動車など輸出型の製造業を中心に、企業業績は軒並み回復した。

 政権は、円安でもうけた企業が社員やパート、アルバイトの賃上げに踏み切り、それによって消費者の財布のひもが緩み、モノが売れて企業業績がさらに上向く、という「経済の好循環」を描く。

 だが、世界同時株安をきっかけに、好循環のシナリオに影も差し始めた。投資家は、安全な資産とされる円を買い進めている。このまま急速な円高が進めば、輸出品の価格競争力が下がり、企業業績も落ち込んで、賃上げの流れが途切れかねない。(以下略)


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by kibouh1 | 2015-08-29 06:07 | 経済 | Comments(0)

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若い人の活躍に希望が持てます。

「70年核全廃へ一歩を」

高校生平和大使国連欧州本部に21

軍縮会議で訴え

【ジュネーブ共同】核兵器廃絶を世界に訴えるため長崎、広島両市の市民団体が選んだ15道府県の高校生平和大使21人が同日、ジュネーブの国連欧州本部を訪問し、大使代表として広島県立広島高1年の井上つぐみさん(15)がジュネーブ軍縮会議の本会議でスピーチした。上さんは、各国代表らを前に「広島、長崎の原爆投下から70年に当たる今年、われわれは核兵器全廃に向け大きな一歩を踏み出さなければならない」と英語で訴えた。(以下略)

2015819日西日本新聞)

だが、私たちは多額の借金と原発を後世に残すことに責任を感じます。核廃棄物は1万年もかかるのです。ドイツの決断に見習いたいですね。

「花時計

全ての原発を2022 年までに止めると決めたドイツを2月に訪ねた際、経済エネルギー省の幹部は大胆な政策に踏み 切った理由をこう語った。「原発から出る廃棄物(核のごみ)の処分方法がいまだに分かっていないから」。ドイツも日本も、核のごみを捨てる最終処分場のめどが立っていないのは同じ。だが、ごみの総量を見積もることができるドイツと、どこまで増えるか分からかい日本とでは、状祝が異なる。九州電力の原発が再稼働した。賛否それぞれ意見はあっても、動かす以上は核のごみが増え続けるという事実は変わらない。ごみの処分まで含め、将来のエネルギー政策の全体像をしっかり考えたい。九州で37カ月の空白を経て、わが家でも原発で作った電気を使うことになる。人ごとではない。(森井徹)(同前)


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by kibouh1 | 2015-08-28 06:04 | 原発 | Comments(0)

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西日本新聞は戦時中の報道を検証する記事を載せました。菊竹六鼓もまた敗れた。

「原点忘れずに 六鼓精神貫け 66

学生時代、日米安保反対、ベトナム戦争反対のデモに参加した。なぜ反対なのか。日本が憲法の理念に反して、戦争に加担することを危惧したからだ。その心配が「違憲立法」という形で実現に向かっている。「平和の党」と言っていた公明党は、政権にすり寄ることで立党の理念を失った。自民党は安倍政治で憲法を自分勝手に変えられるという「ルール」を作ってしまった。時の首相の総合判断で「集団的自衛権」の名のもと、自衛権行使という「戦争」に突入する恐れが生まれた。本紙はこの問題で社説を1面に移し、西日本新聞としての気構えを示した。感服した。本紙の前身「福岡日日新聞」の編集局長だった菊竹六鼓の心意気を感じた。昭和の軍部の暴走に抗議し続けたジャーナリズムの原点を忘れず、本紙が末永く六鼓の精神を守っていくのを願ってやまない。」(2015819日西日本新聞)

そして、後藤さんや山本美香さんの存在は、日本にもジャーナリストが目だたない所で踏ん張っているのではないか。

「山本美香さん  最相葉月

第二回山本美香記念国際ジャーナリ スト賞を受賞したのは、スペインのフォトジャーナリスト、リカルド・ガルシ ア・ビラノバ氏だった。望遠レンズを使わずに対象に肉薄する写真はどれも息が詰まるような緊迫感があり、子どもたちの瞳には、彼らが目撃したでああう惨劇の残り火が映し出されていた。ビラノバ氏はイスラム国に拘束されるという過酷な経験をしながらも、クルド人部隊に従軍して再びイスラム国に入り、彼の地に戦禍を被り苦しむ人々がいることを伝え続けている。その強靭なジャーナリスト精神に敬意を表し、授賞は全会一致で決まった。山本美香さんがシリアのアレッボで銃弾に倒れてから三年になる。本賞は、公私ともにパートナーであった佐藤和孝さんが彼女の遺志を継ぐ次代のジャーナリストを顕彰したいとの想いから設立したものだ。佐藤さんが私たち選考委員に伝えた条件はただ一つ。「美香だったら誰を選ぶかという視点で選んでほしい」。それで十分だった。美香さんだったら激しい銃撃戦ではなく、崩れた建物の柱の陰で息を潜め る少年に目を向けるだろう。美香さんだったら銃を振りかざす兵士ではなく、教育の機会を奪われた女性たちが 秘かに集い勉強する姿をレポートする だろう。美香さんだったら勝ちどき を上げる戦車部隊ではなく、戦車が 巻き上げた土撲にまみれながらも力強く咲く花にレンズの焦点を合わせるだろう。「ジャーナリストがいることが抑止力」になると信じ、彼女は紛争地に通っていた。誰だ、身の程知らずと批判したのは。君か。では君はなぜ、その地が危険だと知ったのか。ジャーナリストが現場に立ち、その日で見て、君に伝えたからではないのか。

柩の中の美香さんは、致命傷となった首を始め全身に九つも銃弾を撃ち込まれたとは思えぬほど美しかった。あの日、私たちはまた一つ私たち自身の目を失ったのだ。(ノンフィクションライター、挿絵佐藤ジュンコさん)(同前)


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by kibouh1 | 2015-08-24 06:21 | マスコミ | Comments(0)

内部崩壊の指摘も

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「山村崩壊寸前異常な景観 85

辺地の山村は住みやすいという。空気、水がきれいで、緑が豊か。四季折々の景観は風光明媚。村人たちの寛恕の心。でもなれ現実は難問山積。限界集落と言われ、高齢化と後継者がいない田畑の荒廃。イノシシ、シカなどの被害も頻繁。精魂込めた作物も一夜で荒らされ、怒りとむなしさは頂点に達する。

電気柵、トタン、ネットを隙間なく集落に張り巡らす。異常な景観である。行政に相談した。わなは狩猟免許が必要、補助金は2戸以上、領収書でなく見積書の提出。もう、面倒くさい。山林はかつて売買でき、生活を潤した。老後の支えにと育林した。今日木材の需要減で収入は途絶えた。山村は怠慢なのではない。努力している。国、地方はこのような現実を把握しているのでしょうか。まさに崖っぷち。国防も大事だが、このような惨状を見捨てるならば、外国から攻められる前に農村は崩壊する。」(2015722日西日本新聞)

70年前、山は回復の道を歩みだしましたが、高度成長期の消費社会で山は見捨てられたのではないか。

「(ひととき)70年前、あの夏の記憶  2015815日朝日新聞

 70年前の8月、私は両親、妹、2人の弟と、中国河北省の張家口に住んでいました。夕食中突然、悪夢のような時が訪れました。「八路軍(中国共産党軍)とソ連軍が街に入ってくる。捕まれば皆殺しだ、即時避難」。緊迫した組長さんの声に、食卓はそのまま、駅に向かいました。

 入ってくる列車はどれも超満員で、デッキにまで人があふれ乗れません。「この列車が最後です」という声の中やっと乗れたのは、軍馬を運ぶ屋根のない貨物列車で、車内のあちこちにふんが転がっていました。昼間は真夏の太陽が容赦なく照りつけ、夕闇が迫ると大雨が降り注ぎます。八路軍の襲撃で線路は寸断され、頭上を弾が飛ぶ恐怖の中、列車の行き先は二転三転、8時間で行けるはずの天津に5日後に着いた時、私たちはボロボロでした。

 9月、3歳の弟が栄養失調で亡くなり、11月には後を追うように父が逝きました。年が明けて1月に引き揚げ船で日本に帰りましたが、2月、小さい弟の命のともしびが消えました。愛らしくて大好きな弟たちでした。

 8月が巡ってくると、あの悲しくて切ない昭和20年の夏を思い出します。(長崎県島原市  79歳)」


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by kibouh1 | 2015-08-23 06:53 | 平和を | Comments(0)

イベント案内

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by kibouh1 | 2015-08-21 07:48 | Comments(0)

加害者の悔い

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「花時計

福岡市博多区の東光中は、生徒が教室内を自由に動き回り、互いに教え合う「学び合い」と呼ぶ 授業を実践している。教員は、解き方を説明する時間を数分にとどめ、子ども同士の交流を促すコーディネーター役に徹しているという。中学1年の数学の授業を見学した。生徒たちは悩んでいる子に解き方を教えたり、理解できない部分を 尋ねたりしていた。生徒からは「先生に質問しづらくて、分からないことをそのままにしていたこともあったが、今は納得できるまで友達に聞けて授業が楽しくなった」との声も。普段は教えるこ

とが多いという男子生徒(12)は「(自分が)教えた友達が、自分よりも詳しく説明できたときが一番うれしい」。学び合いは、学習意欲の向上以外の成長ももたらしているにようだ。(国崎万智)」(2015722日西日本新聞)

米軍の捕虜を殺害した事件が福岡にはあります。油山事件は1945810日、現市営火葬場近くの雑木林において、日本軍がアメリカ軍捕虜(B-29搭乗員8人)を斬首にて処刑したものと、ここで紹介されたものです。

「父親たちの悔恨の形

慈悲深いのか、物憂げな のか。古びた小さな地蔵が 福岡市街を見下ろす油山にひっそりと置かれている。油山事件とは別に、市内で起きたもう一つの捕虜虐殺事件と関わりがあった。連合国軍総司令部(GHQ)の調書に、冬至堅太郎陸軍中尉の供述がある。

〈将校達に申しました。「空襲に依って母を殺されました。処刑されるのなら私にさせて下さい」〉

1945620日、福岡大空襲から一夜明けた陸軍西部軍司令部の裏の敷地 (現赤坂小学校)で米兵8人が斬首された。うち4人に冬至中尉が軍刀を振り下した。上官に命じられた

油山事件の故中島徳美さんと異なり、自らの意思で

63年か64年ごろかな。 突然、おやじが地蔵を庭に置いたんです。数カ月して1体、また1体と・・・」長男の哲也さん(71)=福岡市=によると、全部で4体だったという。あやめた捕虜と同じ数だった。死刑に値することをしてしまった。思い詰めた父は終戦直後、油山観音の住職に自決すべきか、相談した。生きろと諭され、GHQの取り調べ広応じる。判決は死刑。自宅の庭に地蔵を置き始めたのは、減刑になり釈放された後だった。 父は地蔵について家族に何も語らず、米兵を弔うものだったかは分からない。最後は油山観音に託し、83年に68歳で亡くなった。

油山事件と同様、慰霊の法要や碑があるわけではない。それでも哲也さんは30年以上たった今も、地蔵とともに父が関わった事件のことを忘れていない。「悔恨があったのでしょ

う。反省をどう表現するかは人それぞれ。形あるものだけではないと思いま す」

中島さんにも4人の息子がいた。火災の不幸に見舞われた直後の711日、記者の私は、長男の伸武さん(66)=福岡県大野城市、四男の茂生さん(58)仙台市=と面会した。伸武さんは幼いころ、東京の巣鴨拘置所で金網越しに見た父の姿をかすかに覚えていた。茂生さんは、B C級戦犯だった父の過去を 私の口から初めて聞いたという。獄中手記のコピーを 見ても、自分の知る父と重ねるのに苦労しているようだつた茂生さんは父の胸の内をおもんばかり、言った。「自分もおやじの立場だったら、息子にそんな話はできない。それでもずっと記憶にあった。だから、新聞の取材を受けようと思ったんでしょうね」一

昨年3月、本紙に載った戦争証言の募集記事を見て「私の体験が参考になれば」とはがきを送った。それが中島さんなりに考えた慰霊の形だったに違いない。」(同前)

油山事件の1人の中島さんは自宅の火災で亡くなりました。火災のことは近所でしたので人伝に聞きましたが、まさか、油山事件と関わりがあるとは。


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by kibouh1 | 2015-08-21 06:39 | 平和を | Comments(0)

地方の豊かさは

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「デスク日記

 「都会は便利でよかでしょう。私は生まれてずっとここですから、うらやましかですね」。そんな言葉を掛けられて前任地の長崎県大村市を後にした。10年ぶりに戻った福岡は人や店があふれ、確かに活気に満ちている。

 だが、以前は星座の形が判別できた夜空は、都心の明るさに圧倒され、明るい星を見つけるのがやっと。公共交通は充実しているが、時に、すぐそこでさえなかなかたどり着けない渋滞に困惑することもある。

 地方では中心部から15分ほど車を走らせただけで、天の川の光の帯に出合えたり、車を使えば同じ距離を都会より早く移動することが可能だったりする。インターネットの普及で物や情報の格差を解消することも可能になった。

 人口減少社会に突入し、地方は衰退の不安を抱えている。何とか地方の「豊かさ」が認識され、うまくすみ分けができないものか、と感じている。 (大月崇綱)=2015/08/13 西日本新聞朝刊=」

地方に原発をおいて経済を豊かにするのが打開策なのでしょうか。そんなことはあまり考えずに過疎地帯に原発を設けたのに今回の震災の教訓があるのではないか。


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by kibouh1 | 2015-08-20 06:21 | 経済 | Comments(0)

語られる戦争

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まずは瀬戸内寂聴さんです。93歳です。

「(寂聴 残された日々:3)防空壕 「もう、いや」母は死を選んだ

2015814日朝日新聞

 昭和二十一年八月、私と夫は二歳になったばかりの娘をつれ、中国から着のみ着のまま引きあげてきた。私たちの故郷の徳島にたどりついた時、駅の人ごみの中から声をかけられた。

 「はあちゃん! はあちゃんでしょ、よう帰ってきたね」

 小学校の同級生のスミちゃんだった。

 「お気の毒に、あんたのお母さんな、防空壕(ごう)で焼け死なれたんよ!」

 私にはスミちゃんの言葉のほとんどが理解出来なかった。母が死んだということだけがわかった。その時、駅前を自転車に乗った姉が走ってきた。駅前の家々はすっかり焼き払われているので、家並みの向こうに見えた眉山(びざん)がいやに間近に迫っていた。姉は自転車を降り、二歳になったばかりの私の娘を抱きあげた。

 「よう帰ったねミッちゃん、おばあちゃんがあんなに会いたがってたのにね」

 ようやく私は、母は死んだのかと聞いた。姉の答えでは、母は防空壕で、たまたま疎開先の田舎から卵や野菜を届けに来た祖父と折り重なって焼け死んだという。祖父は風邪で熱を出していたが、歩けないほどの状態ではなかったとか。

 その夜の空襲は四国の徳島、高知、高松を次々襲ったという。歩くにつれ、のどかだった美しい徳島の町が見るも無惨(むざん)な焼け跡になっているのが目に映ってきた。(以下略)

「わたしの8.15

次の世代に体験継ぐ

俳優 宝田明

父が鉄道技師として南満州鉄道(満鉄)で働いていたので、旧満州(中国東北部)のハルビンで小学校生活を送りました。朝礼では「日出づる国・日本」に向かって頭を下げ、 好むと好まざるとにかかわらず軍国少年に育ちました。米軍が長崎に原爆を落とした194589日。日ソ中立条約を破棄したソ連は満州に侵攻し、関東軍はあっという間に蹴散らされま.した。玉音放送を聞いたのは満鉄の社宅。内臓をえぐり取られたような気持ちになりました。815日は終戦の日と言いますが、私たちには「2回目の戦争」が始まっていたのです。ある日、自動小銃を持ったソ連兵が社宅に侵入し、食事をしていた私のこめかみに銃口を当てました。歯を食いしばろうと思っても全然かみ合わない。歯の音だけがガタガタと鳴り震えが止まりませんでした。社宅裏の土手で女性が暴行されるのも見ました。

家族の引き揚げが決まったのは4611月。列車や深夜の「行軍」で南に向かいました。 ハルビン出発から2カ月半で 南満州の葫蘆島に着きました。その間「必ず迎えに来る」と言って現地の人に子どもを預ける母親を何人も見ました。食料もなく衛生状態も悪い中、子どもを守るためです。戦争は一握りの人間の判断で始められますが、犠牲になるのはいつも無辜の民です。 今の日本に中国残留孤児の十分な受け入れ態勢があるでしょうか。腹が立って仕方がありません。役者という仕事は右から左までいろんな考え方の人がお客様です。従ってノンボリを心掛けてきましたが、還暦を過ぎたころに「おい宝田、役者である前に」という声が聞こえました。自分の体験を若者に伝え「君たちはどういう選択をするのか」という問い掛け、リレーのバトンのようなものを次の世代に渡したいと思っています。」(2015813日西日本新聞)


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by kibouh1 | 2015-08-19 06:17 | 平和を | Comments(0)