気ままなつぶやきです


by kibouh1

カテゴリ:平和を( 552 )

今の日本は

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201897日西日本新聞の戦争体験記からです。

「犠牲者に映る 今の日本とは  81

戦争という大きなうねりにのみ込まれ、小学生にして得体の知れない怪物のとりこになっていたのでしょうか。唱歌は忘れているのに軍歌はスンナリと口をついて出るのです。学習したばかりの文字で書いた慰問文に返事をいただき、朝礼の時、読み上げられました。 もんペ姿にげたか草履、 防空頭巾とういう身支度で通学です。授業は小学生が立ち向かえる相手でもないのに手旗信号、竹やりの手ほどきを真剣に受けました。学校から帰る途中、空襲 に遭い、橋の下にもぐり込みました。怖くて震えていると、高等科のお姉さんが「私たちに何かある時は、母ちゃんも一緒よ」と諭され、妙に納得したものです。近くの農家には師範学校の生徒さんが農業の手伝いに来られていました。時々、馬に同乗させていただきました。その方たちにも召集される日が訪れ、お別れの時は大位きしました。

柄の取れた鍋、さびつい銀瓶など供出。サツマイモばかりの麦御飯。いつの間にか母の大切な帯や着物は、食料に化けていました。竹のように細いサトウキビ、口を切らないようにし

ゃぶりました。根っこの太い茎、薄紅色のスカンポは、とてもおいしかった。 白壁は黒く塗られ、電灯は明かりが漏れないように布をかけてありました。警}報が鴫ると防空壕ヘ逃け込むのですが、暗くて狭い所 に入ると、生後間もない妹が大声で泣くので、竹やぶの中に蚊帳を張って身を潜めていました。B29は黒く見えました。市内が真っ赤に燃えている 様子を皆でぼうぜんと眺めました。子どもなりに何か迫ってくるものを察したものです。やがて終戦を迎えました。ジープに乗った進駐軍 の人たちが村の中まで入ってきました。女、子どもは 隠れるように伝えられ、私たちは隠れました。何があったのでしょうか。

街の中は傷痍軍人、孤児、私娼、皆生きるために一生懸命でした。学校では、頭髪にDDTを散布、落ちないように頬かぶりして帰宅します。家でも畳の縁、敷布団にも粉だらけになるほど散布。おかげでノミ、シラミは退治。考えたら怖い話です。

常に何かにおびえた生活には希望など持てません。戦争とは、誰が、何のために。犠牲になられた大勢の方々に現在のこの国を見ていただきたいものです。何とおっしゃるでしょうか。」

「最後の戦闘機 「震電」を見た 88

昭和208月、はるか北に東の空に一風変わった飛行機を見た。席田飛行場(現,福岡空港)上空で旋回を繰り返す。変な飛行機だなー妹と眺めた。尾翼に当たる翼が前方にあり、まるでバックの状態で空を駆ける。九州飛行機製作所が開発したJ7(震電)という、日本最後の戦闘機である。敵機は高度4千メートルの上空を飛行する。この高度まで一 気に上昇するために開発されたとのことだ。わが軍の高射砲弾はこの高度に達することはなく敵機は泰然として焼夷弾を投下し飛び去る。福岡空襲の折、高射砲弾を撃つが、あと一歩のところで達することはなく、もどかしくてじだんだを踏んだ。

震電は試作機で終わり、もっと早く開発されていれば、敵機に日本の上空を荒 らされることはなかったの ではとの思いもはせる。遅きに失した。震電は戦後、 米軍に接収されたという。」

「死ぬことさえ知らずに死ぬ  97

老女は腕に、少年は胸に10センチほどのやけどがあり、 ひどく落ちこんでいた。そんな2人を元気づけるために私は言った。「そのくらいの傷ならすぐ治る。司令部には大けがをした人がいっぱい来ておる。油をつけてやっているのですぐ行きなさい」。広島の比治山、暁部隊司令部の原爆当日の出来事である。

翌朝、私は気になり2人一がいた山道を通った。段差に腰掛け、少年の肩に手を回し、老女は笑みさえ浮かべていた。「どうでした?夕べは」。私は動こうとしない老女の肩を揺すると、

2人の体はぐらりとして地面に崩れ落ちた。「あっ、死んでいたんだ」。私はあまりのことに体が震えた。自分が死ぬことさえ知らず死ぬなんて。何と恐ろしい燥弾だろう。

いまだにあの日の驚きは忘れられない。あれから73年。私は97歳になったが、老女と少年の不安げな顔を思い出す。」


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by kibouh1 | 2018-11-05 06:21 | 平和を | Comments(0)

平和な時代を

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「戦時中、本から勇気」角野さんアンデルセン賞受賞式

児童文学界のノーベル賞と言われ、子どもの本に貢献した作家や画家に贈られる「国際アンデルセン賞」の授賞式が31日、ギリシャのアテネで行われ「魔女の宅急便」などの作者として知られる角野栄子さん(83)に、作家賞の賞状とメダルが贈られた。同賞は2年に1度、国際児童図書評議会(IBBY)が選ぶ。日本人で作家で賞を受賞したのは、まど・みちおさん(1994)、上橋菜穂子さん(2014)に次いで3人目。角野さんは授賞式で、10歳だった第2次世界大戦中を振り返り、「本によって どれほど慰められ、生きる勇気を与えられたか」と語った。(以下略)」(201892日朝日新聞)

軍人勅諭は知らない人が多いのでしょうが、精神が受け継がれているという。

「軍人勅諭の精神過去のものか  91

元侍従、故小林忍氏の日記で 明かされた昭和天皇の晩年のお姿をしのびつつ、私は軍人勅諭の暗唱を強いられた日々を思い 出した。小学校5年生だった1 93777日の慮溝橋事件 の直後から、1945815日、陸軍2等兵として昭和天皇の玉音放送を聞き号泣した日まで8年間、ことあるごとに「上官の命令は朕の命令」と説く軍人勅諭によって体罰を受けた。胸を蹴られて絶命の危機を感じたこともあった。戦後の巡幸で、中学校新聞の記者として初めて間近にそのお姿を見た時、私は「朕の命令」と「人間昭和天皇」の差の大き さに身の震える思いがした。 「朕の命令」とする軍人勅諭 を絶対服従の道具とし、ほしい ままに振る舞った「上官」たち。 それが無謀な戦争を拡大し、大きな犠牲を出して自滅の道をたどった。その構造を省みる報道や番組が8月には多くあった。一方で「上官の命令は朕の命令という古い体質を引きずっているような問題が、政官財からスポーツの世界まで、今も蔓延していると明らかになった。社会に蔓延する権力の暴走に屈しない強い力を各人が養い、結集する秋でありたいと願う。」(同前)


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by kibouh1 | 2018-10-31 06:22 | 平和を | Comments(0)

体験の継承は

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体験を引き継ぐのは難しいことでもありますが、それだけに工夫も必要なのでしょう。

「(声)残念な中身の戦没者追悼式 78歳 2018930日朝日新聞

9月24日、私の住む市で戦没者追悼式が行われました。今回初めて参加し、そして驚きました。式は、市長や市議会議長、県議、国会議員などの追悼のことばと献花のみで終了したからです。どなたのお話も「尊い命」「国のために」といった言葉が並び、形式的なものに感じられました。

 参加した遺族の数は80人ほど。来賓の数とほぼ変わりません。市遺族会長のあいさつはありましたが、苦労に苦労を重ねて生きてきた私たち戦争遺児が個々に発言する機会はなく、座っているだけのお飾りのようでした。

 私が3歳のころ、父はニューギニアで戦死し、私は父の顔を知りません。経験を語れる戦没者遺族は年々減っています。例えば、追悼式で遺族がスピーチし、その内容を市報に載せるのはどうでしょうか。

 戦争を再び起こさないために、戦争のもたらす悲惨さと残された者の苦しみを、多くの戦争を知らない世代と共有できる式であったら、と切に思いました。」

新聞などで体験記が掲載されています。それを広める事業などが必要なのかと思いました。


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by kibouh1 | 2018-10-25 06:52 | 平和を | Comments(0)

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日本は近代になるまで戦争は白村江の戦い、秀吉の朝鮮出兵など数少ない国として知られているという。それが明治以降、150年の間に大きなものだけで清国・ロシア・アメリカなどとの戦いを重ねています。中国での満州国という侵略、朝鮮の植民地化もあります。ところが、明治150年を盛り上げようとする人たちがいるという。

「永田健の時代ななめ読み 三四郎が見た明治

 元外務省国際情報局長で外交評論家の孫崎享(うける)氏は、著作「日米開戦の正体」(祥伝社)で、漱石のこの2作品に触れた。「それから」の代助の言葉を引きながら、日露戦争以降の日本の国家予算における国債費(国の借金)と軍事費が増大した経緯をデータを示して分析している。

 孫崎氏は「日露戦争後、インフレ上昇、増税などで社会不安が増大し、それが軍部独裁の道につながった」などを理由に「真珠湾攻撃(日米開戦)への道は日露戦争の『勝利』から始まった」と指摘する。

 明治に現実の国力以上の自信をつけた日本が、昭和になって無謀な戦争を始め、ついには「国が亡ぶ」に等しい敗戦を招く-。漱石の懸念は現実化した。

   ◇    ◇

 今年は明治150年に当たる。安倍晋三政権は盛り上げに余念がない。「明治の精神に学び日本の強みを再認識する」として数々の行事を催し、今月23日に政府主催の記念式典を開く。

 確かに明治は日本が短期間で近代化に成功した誇るべき時期だ。西洋文明を大胆に取り入れ、立憲政治を確立し、新たな社会システムをつくり上げた。日本史上屈指の成功体験である。

 しかし、それは同時に「昭和の大失敗」の起点でもあっ」た。そこに目をつぶり、ただ「素晴らしい明治」と祝うのは、少しばかりおめでたすぎはしませんか-と漱石先生のポーズでつぶやく私である。(一部引用) (論説副委員長) =2018/10/21付西日本新聞朝刊=」

平和な日本でしか生き残る道はないと私は思う。


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by kibouh1 | 2018-10-23 06:15 | 平和を | Comments(0)

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秀吉の朝鮮への武力進出を「朝鮮征伐」と教わった。朝鮮の人から見ればなんだろうということにならないか。それは先の戦争時を含めての植民地扱いでも同じではないか。だが、旭日旗のことは詳しくは知りませんでした。次の投書にも教えられました。

「(声)旭日旗、韓国民の思い聞いては 57歳 20181016日朝日新聞

 韓国で行われた国際観艦式に海上自衛隊は、韓国側から旭日(きょくじつ)旗(自衛艦旗)を掲揚しないよう要請されたことを理由に参加しなかった。

 旭日旗の掲揚は韓国の国民感情を傷つけるという韓国側の言い分は理解できる。旭日旗は旧日本軍の艦艇も使い、その軍事力を背景に日本が朝鮮半島を植民地化した歴史があるからだ。

 この旗には、自衛艦を民間船と区別する国際法上の役割があるという。だが、今回は韓国が求めたとおり、国旗でもよかったのではないか。観艦式は国際親善が目的で、戦闘に行くわけでもないし訓練でもない。軍事的な威容を示す必要もない。

 主催国の国民感情を傷つけてまで海上自衛隊の誇りを守りたいのだろうか。日本の植民地支配の象徴である旭日旗を、韓国領海内に自衛隊が掲げて入ってきたときに韓国国民はどう思うか考えなかったのだろうか。

 日本と韓国の間で歴史問題でもめることは今までもあった。韓国の言い分に納得のいかないこともある。しかし両国の歴史問題の原因は日本の加害責任にもある。まず韓国の言い分をよく聞いて議論を進める姿勢も、時に応じて必要だ。」

隣国同士だからこそもめる種はあるのだと思います。外交交渉の上にのせて対話していくしかないのでは思うのですが。


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by kibouh1 | 2018-10-20 06:02 | 平和を | Comments(0)

学徒動員

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2018816日西日本新聞の戦争体験記からです。

「学徒動員の母 空襲に震えた 60

母が繰り返し語った戦争の話。昭和2088日、15歳の母は女学校の学徒動員で、旧八幡市(現北九州市)にあった三菱化成の工場に来ていた。昼前、空襲警報のサイレンと同時に、B29の無差別な攻撃が始まった。いつも行く山手の防空壕まで間に合わず、工場近くの防空壕ヘ飛び込んだ。激しい焼夷弾の音に身を縮め、恐ろしさに震え、息を殺して泣いていた。

翌日、目を覆うような惨状に外出禁止となった。後で山手に避難した人々は全滅だったと知り、母は九死に一生を得たという。そして、理不尽な戦争で未来ヘつなぐレールを絶たれた人々の無念を忘れず、永遠の平和を願い生きてきた。母の思いを私は大学生の息子へつなぐ。今年88日、八幡大空 襲の日は母の一周忌。」

「父の最期思う ボルネオの旅  74

4年前、父の戦没地、ボルネオヘ戦没者慰霊の旅を した。日本遺族会のお世話になりながらガタガタ道を 4時間。目的地周辺に着いた 戦時の様子を知っている 人にやっと出会えた。丘の上に学校が見えた。「あれは、町の病院だったが日本の傷病兵であふれでいた。民家まで占領されていた」。 日本兵は、現地人の安穏とした日常まで脅かしていたのだ。その病院で、父はどんな最期であったのか。複雑な思いであった。

マレーシアと日本の国旗を立て、集まってくれた現地の人と合掌。父に届けと「故郷」を、涙、涙で合唱した。

戦後、病院は壊され学校となった。「その時、大量の白骨体が出てきたので近くの海岸に捨てた」と、衝撃的な話を聞いた。ここヘの途中、砂浜で何げなく貝と砂を拾った。「父は、ここにいるよ」と教えてくれたのか。そして父は、やっと母と共に眠ることができた。」


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by kibouh1 | 2018-10-19 06:00 | 平和を | Comments(0)

シベリアの空

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2018814日西日本新聞の戦争体験記からです。

「美しく悲しい シベリアの空 93

11月末。今夜もまた、あの美しくて悲しいオーロラの空。遠く離れたシベリアの奥地での生活。氷点下30 度はある。毎夜、父母の顔が目に浮かぶ。当時は20歳。人口3千人ほどの小さな鉱山の町で124時間3交代の作業。8時間休みはなく、食事もない。3交代の夜は9時からの出発で、収容所に並び人員点呼するが、 氷点下3040度の冬の整列には参った。 点呼が終わると歩いて50分ほどで鉱山の入り口に着く。鉱山の中は比較的暖か いが、それでも氷点下10度はあるだろう。作業は横堀と立堀で一日のノルマは2メートルの穴を12本掘ること。削岩機は重く、栄養不足のわれわれにはきつい。「グワイ、グワイ」(ロシア語で頑張れ、頑張れ)と尻をたたかれる。8時間の作業を終え頭から足まで鉱山の灰だらけだ。風呂なんてなく、そのまま手ではたいて収容所に帰る。

やっと食事だ。130グラムの黒パン、飯ごうのふたに少々のコーリャンと冷凍ニシン、ペシンはペーチカに乗せると、溶けて骨だけになる。飯ごうに水を入れて吹くとニシンのスープだ。終戦時57キロあった体重がみるみる軽くなる。土の中の建物柱には無数の小さな 穴がある。疲れた体を横たえると南京虫の総攻撃だ。血を吸われたところが赤く腫れあがり、かゆくてたまらない。 日本に帰った時は体重が37キロになっていた。今の政治家も一度は飛行機ではなく、シベリア鉄道で花束を持ってモスクワに行ったらどうだ。シベリア鉄道の枕木の数ほど、亡くなった日本人がいる。」

「父戦死の悲報 泣き叫ぶ家族  84

兵隊さんへの慰問文を書いていた目、運動場では何かの訓練をしていました。兵隊さんが1人いて指揮を執っていたようです。私の父も大きな馬を引き、訓練に参加していました。訓練から何日もたたない夜、父に召集令状が届きました。出征までの短い日々に、馬手放すことや家のことなど整理もあったでしょう。大変だったと思います。出征する日はすぐに来ました。その日は朝から雷の鳴る中、提灯と傘を手にお宮に参り、午前中に近くの駅から出征しました。母は大きなおなかをして父を見送りました。家族が父の顔を見たのはこの日が最後でした。父は入隊するとすぐに戦地ヘ送られました。

あっという間で面会に一度も行くことはありませんでした。 戦争は激しくなり、空襲 警報が鳴り、焼夷弾が落ち防空壕に逃げ込む日もありましたが、昭和208月、 やっと戦争は終わりまし た。戦地からの引き揚げも始まりました。私たちも今日か明日かと、父の帰りを待ちましたが、とうとう帰りません。届いたのは戦死の公報です。悲報を聞いた祖母は狂ったように泣き叫び、近所の方が何事が起きましたか?と心配して来てくださるほどでした。 戦病死だった父もどれほどつらい思いをしたことで しょう。両親を残し妻と3 人の娘、出征時に会えなかった息子を残し、自分も病に苦しんで逝ったことを思うと今も胸が痛みます。実家には38歳の父と、100歳の母の遺影が並んでいます。」


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by kibouh1 | 2018-10-12 06:24 | 平和を | Comments(0)

徴兵の義務

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かつての帝国憲法以前も、憲法で定められてもそんなに「国民皆兵」は進まなかったという。

「『戦争をする心』をつくる

戦争する国家のなかで家制度が果たした二つ目の役割として、1973年(明治6)年に徴兵令が布かれて以降、特に国家総動員体制の中で、国民の「戦争をする心」の醸成に一役かったことを指摘すべきでしょう。

想像してみてください。だれも、兵士として戦争に好んで行く人はいません。それは明治時代でも同じ です。実際、徴兵令が出されてしばらくの間、徴集兵率はそんなに高くないのです。徴集兵率は、徴兵令が出されて2年後の1875(明治8)年で徴兵適格者のうちの約3%1890(明治23)年で約6%1897(明治30)でも約11%という数字です。また「日本長期統計総覧」の数字を見ても、日本の兵士の数は、明治後期から陸軍、海軍を合わせて30万人程度を維持しており、日中戦争の始まる1937年以降の大動員にいたるまでの間に急激な伸びは見られません。」(『右派はなぜ家族に介入したがるのか』)

ところが、日中戦争が始まると

「日中双方が、意地の張り合いのような形で、互いに相容れない要求を出し合ったことにより、盧溝橋事件に端を発した日中両軍間の武力衝突は、いよいよ本格的な地域紛争へと発展することになります。同朝刊一面には、もう一つ、現代の視点から見て興味深い記事がありました。 それは、東京と大阪の朝日新聞社が共同で出した、紙面全体の約四分の一を占める告知で、見出しは「非常時局に直面して軍用機献納運動」、つまり日本軍の戦争遂行に協力するために、朝日新聞社が会社として軍用機購入資金を寄付するのと共に、読者にも広く寄付を呼びかけるというものでした。「北支事変が勃発し、時局ますます緊迫するのにかんがみ、いよいよ空の守りを強化することの必要性を認め、かねて本社の提唱実行してきた航空報国運動をこの際飛躍的に拡大して、我が空軍の強化に国民的協力をなすため、ここに軍用機献納運動を提起することに決した。空の国防こそは国民の最大関心事であり、(中略)空軍器()材の充実に対しても出来うる限りの寄与をなし、われらが空軍をして鉄壁のご

とく東亜の空の守りを完全にするところは、烈々たる報国精神に燃ゆるわれら国民の責務である」(『1937年の日本人』)

 官民挙げての戦時ムード。愛国心を利用しての態勢が一挙につくり出されていったように感じます。いつ、そうなるか分からない社会の雰囲気を感じます。


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by kibouh1 | 2018-10-08 06:35 | 平和を | Comments(0)

語り継ぐ

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朝ドラが10月から「まんぷく」に変わりました。主人公は電話交換手として働きだします。

私が就職した1962年頃は電話交換機室があり、そこを経由してデスクの内線電話につなぐという仕組みでした。それが内線電話が外線に直接つながったのはいつのことか記憶がありません。

2018727日西日本新聞の投稿欄からです。

「魚雷の爆発音 船団は火の海  96

昭和18年の終わりころ、暁部隊で輸送船に乗っていた。日本から軍需物資を積み、帰りは南方から油を積んだ船と船団を組むことになった。3隻ずつ組んで中心にタンカーを置き、9隻船団で帰った。いつもバシー海峡では何かが起きる。その時「ドドドーン」と魚雷の爆発音がした。緊張の糸が切れてあぜんとする中に船団は火の海となった。タンカー火災は手の打ちようがない。船員こそあ}われである。その後の航海で、そのタンカーに乗っていたという船員が私たちの船で一緒になったことがあった。死にもの狂いで泳ぎ、振り向くと火が近くまで燃えていた ので、また潜って泳いだと 話していた。そんなことが できるのは船だからだろう。」

「米穀は統制化 目光らす警官  90

積戦時中の食糧不足はひどく、統制化されて各家庭にも米穀通帳による購入が日常となった。1日分を1回で食べても満腹になることのない量ではなかったかと思う。ひどかったのは昭和19年ごろになるとコーリャンなどの配給も加わり、いま思い出してもよく食べら れたなという感じだ。 そんな日々だから闇米も 流通する。主なバス停では私服の警官が張り込み、下車する客の持ち物を調べて米だったら没収し始末書を書かせていた。

ある日実家(農家)に行っていた父が、おひつを抱えて帰ってきた。聞けば米は取り締まりで没収の恐れがあるため、ご飯なら大丈夫といって母親が持たせてくれたという。その夜、家

族そろっていただいた。こんなにおいしいご飯を食べたのは久しぶりで、皆の顔も輝いていた。」


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by kibouh1 | 2018-10-05 06:42 | 平和を | Comments(0)

「最後の敬礼」

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2018727日西日本新聞の戦争体験記事からです。

「最後の敬礼に 涙も拭かずに 89

特攻出撃を見送った日 鹿島灘から吹く風まだ肌寒き昭和203月末。第6航空軍所属の常陸陸軍教導飛行師団。飛行場の一隅で出陣式。白いマフラーの飛行服姿も凛々しき若鷲8人。 1年先輩15期生篠原伍長ほか18歳の面々。師団長加藤少将に出陣の申告。その名 も第61振武隊。 片道分の燃料と爆弾を積み、沖縄への特改作戦。動揺の色もなく、眉宇に固き,決意の表情。前夜宿舎を訪問、訣別の面会。みな真剣な面持ちで遺書の執筆中。 後輩の来訪を喜び「おう17期か、後は頼むぞ」と笑顔に握手。「食え」と特別給与のようかんを差し出す瞳は潤んでいた。見送る者すべてと滂沱と流れる涙を拭きもせず、万歳万歳の連呼口を真一文字に引き締め、最後の敬礼をする彼らを前にしたとき、私はこの世の神を見た。

それから1カ月後の4228日、薄暮どき、沖縄本島周辺洋上で敵艦に体当たり散華す。あ 悼むべし。戦禍に没せし軍民多数のみ霊よ。今はただ不戦の誓いも新たに、鎮魂と冥福を祈るのみ:合掌。」

「色が刻々変化ピンクの雲に 87

中学3年になると、熊本県荒尾市の陸軍造兵廠荒尾製造所(火薬製造)に勤労動員された。学生寮は市外の丘の上にあった。戦局は逼迫し、敵機B29の大編隊は必ず夜間に襲来。焼夷弾を雨霰と落とし、眼下の大牟田市(福岡県)は大火災となった。学生寮付近のカライモ畑にも落下し 油脂が飛び散り、燃え上が り、必死で消火した。 昭和2089日午前11 時ごろ、丘の上の天空が突然パッと光った。稲光で はあり得ないと思い、島原 方面を見ると雲が異様に盛り上がり、見る見るうちにキノコ形に変わった。色は刻々と鮮やかな、超きれいなピンク色に変わっていく。その鮮烈な印象はいまだに脳裏から消えない。当時は特殊爆弾、落下傘爆弾とうわざされていたが、この1発で長崎市街が一瞬にして灰じんに帰し、大多数の死傷者を出す地獄絵図を現出したことを、当時だれが想像できただろうか。」


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by kibouh1 | 2018-10-03 06:23 | 平和を | Comments(0)