気ままなつぶやきです


by kibouh1

カテゴリ:平和を( 542 )

平和でありがたい

f0239450_10401815.jpg

201876日西日本新聞の戦争体験記からです。

815日境に暮らしが一変 86歳

父の仕事の関係で朝鮮の仁川に住んでいた。家族7 人で何不自由なく暮らして いた。毎日、朝鮮人が子守や庭の手入れに来ていたが、当然だと思って育った。 815日の終戦の日を境に生活が一変した。使用人だった朝鮮人たちが「ニッボン負ケタ。日本に帰れ」と言いながら、ラジオやミシンなどの家財道具を持ち去った。夜には朝鮮人の強盗が入り、父を柱にくくりつけ、たんすの中の物を盗んでいった。母や私たち子どもは恐ろしくて震え上がった。

1118日、引き揚げの順番が来た。仁川から着の身着のまますし詰めの貨物列車に押し込まれ釜山に向かった。釜山の日本人収容所で三日三晩待ち、やっと興安丸に乗り日月23日に山口県仙崎港に上陸。苦しく惨めな3カ月余りだった。帰国後も悲惨だった。父の仕事がないため収入はゼロ。食べる物がない。着る物もない。ノートも鉛筆もない。あわれな生活が続いた。幼いころの写真の1枚も、小学校のクラス写真や通知表もすべて置いてきた。思い出の品は何もない。いま寂しい老後を生きている。

子どものころ戦争があった。13歳の少女の人生も戦争に翻弄された。今は平和でありがたいとつくづく思う。」

「友にささげる 鎮魂ステッキ  69

戦争資料館を開設して一年になる。4年前、隣町のご婦人から「父の形見のス テッキです。役立ててください」と寄贈を受けた。長さ1M、黒茶色の一見何の-変哲もないステッキ。実は、こよりで作られたものだった。数カ月かけて作られた。一父上の存命中、時々大事そうにステッキをなでておられたそうだ。父上は激戦地のソロン島から運よく生き残り、無事故郷ヘ復員された。戦友のほとんどが戦死。その中の1人で、無二の戦友が足を負傷し、父上が肩を貸しながらジャングルを敗走したが体力が限界に達し、やむなく置き去りにするしかなかった。戦友は餓死した。復員後、どうしてもその戦友のことが心にひっかかった。鎮魂の意を込め、時間を見つけては縁側で黙々と木材の芯にこよりを丁寧に巻きつけて原型を作り、黒茶のニスを塗り、1本のステッキを完成させた。今、ステッキは資料館の片隅にひっそりと立っている。」


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-26 09:39 | 平和を | Comments(0)

加害者にもなる

f0239450_10531592.jpg

樹木希林さんは生前「戦争は被害者だけでなく、加害者にもなる」と述べたそうです。大事な視点だと思います。

2018713日西日本新聞の戦争体験記からです。

「なぜ15歳兄は 戦死したのか 81

昭和5年生まれの次兄は203月、東シナ海にて戦死した。享年153カ月で、 あの大戦で最も若い戦死 の一人だろう。「なぜ、こ のようなことが」という疑問が去らず、今日に至ったが、最近偶然手にした資料 で以下のことを知った。 戦局が逼迫し、兵力の補 充が手詰まりとなり軍は少 年兵の動員を重視。海軍特 別年少兵制度が設けられ た。これは14歳以上16歳未満の少年から採用した練習兵に、短期間の教育の後、 第一線に配置したようである。この若い兵士たちの実に5割近くが戦死し、その中に次兄も入っていた。

長姉の話では、面会に来た母に兄は取りすがり泣いた。志願しなければよかったろうに、時代がせき立てたのだろう。戦争のできる国にしようとする動きがあるようだ。決してその道

に進んではならない。」

「たばこ作りは子どもの仕事  85

子どもの夜なべの手伝いの一つに巻きたばこ作りがありました。大人は農作業に使う小縄や牛馬の手綱を綯うなどの仕事。その大人たちのため、たばこを巻く作業が子どもの割り当てで した。 配給で買える中身と巻き 紙は数に制限があり、太巻 きから極小、鉛筆のように 3Bから3Hまでありまし た。配給量が不足したため、 父の発案でタマネギの赤ヒ ゲを乾燥させて小さく刻 み、本物のタバコに混ぜて 太巻きを作ったものです。ところがおいしくないと 不満タラタラ。しかし「子どもの協力を無にしてはだめだっ!」と父にたしなめられて渋々消費され、以来、混合たばこと赤ヒゲ状の物は没となった。巻道具は簡単な作りでしたが、習熟するまでには至らなかった。巻き紙も貴重品なので、やがて紙は使わぬ「刻みたばこ」になり、今度はキセルの「ヤニ」取り掃除が子どもの仕事に回ってきました。」(2018713日西日本新聞)


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-25 06:52 | 平和を | Comments(0)

6月19日は

f0239450_13392599.jpg

新聞の投稿欄からです。

「福岡大空襲の 惨劇忘れない 86

昨年6月、福岡市赤煉瓦文化館(岡市中央区)で催された平和祈念資料展に足を運んだのが頭をよぎる。昭和20619日の福岡大空襲。当時中学1年だったが、米軍機B29の襲来で博多の中心部は一夜にして焦土と化し、大勢の人たちが犠牲になった惨劇は今でも忘れることはない。鉄かぶとや防空頭巾、空襲時に鳴らした携帯サイレンなどが目を引いた。特に 現在の博多座にあった旧十五銀行福岡支店の地下室で60人以上が閉じ込められ、熱死したことは今でも心に残っている。戦時中に発行された10円や100円の紙幣、国民学

校の優良可の通知表は学期ごとに一喜一憂したのが懐かしかった。印象が深かったのは勤労奉仕の写真。当時は学校での授業はなく、近郊の農家で田植えや稲刈りを手伝った。知らない間 に足にくっつき血を吸うヒル、お国のためにとせっせと汗を流した。 戦後73年。鎮魂の夏が巡ってくる。戦前、戦後の混乱期のつらさを思うと平和の尊さを実感する。」(2018618日西日本新聞)

全国的に空襲が繰り返された。無差別爆撃だった。


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-23 06:38 | 平和を | Comments(0)

「帽振れ」悲し


f0239450_10310033.jpg

2018914日西日本新聞の戦争体験記からです。

「沈みゆく乗艦「帽振れ」悲し 89

私は旧海軍の軍人でした。思い出はいろいろありますが、忘れ得ぬ一つに「帽振れ」があります。これは人、艦船や飛行機などを見送る時に軍帽を振ってサヨナラ、あるいは頑張れと伝える行為です。幾度か悲しい見送りをしましたが、一 番つらく悲しかったのは、 敵機との交戦で戦死者と共に沈みゆく乗艦を無言のまま「帽振れ」で見送った時ことです。 月明かりの洋上で敵雷撃機との激しい対空戦闘、敵 機第2波の攻撃で被弾し、艦橋を破壊され操艦不能になり、艦長以下戦死52人、艦首部の浸水多く徐々に沈んでいきます。今なお忘れ得ません。その後、航空隊勤務を命じられ、沖縄特攻作戦の軍務に従事しました。生還することなき特攻機の出撃。無言で帽振れの別れが幾度あったことか。思えば前途有望な若人たち。愛する妻子、家族、恋人を残し、戦に散華せし人々。戦争さえなかったらと。国のためとはいえ痛恨の思いが切実です。戦争は絶対の悪であると、生き残った軍人であったから断言できるのです。」

「友の命救った マラリアの薬   69

18歳で志願して軍属となったAさんは、南方航空の航空技術員として任務に就いた。軍属は民間だが、軍人と同等の扱いだった。敗戦後、武装解除する前に部隊の戦友らと徹底抗戦しようと、部隊を飛び出す決意 をした。決行の日、日本軍の倉庫に保管してあったキニーネの缶を失敬した。マラリアの特効薬であることと、先々きっと役に立つと直感したそうだ。 このキニーネがAさん自身、シンガポールでマラリ アに罹患した際に役立ち、命を救った。マレー半島を彷徨中にもマラリアに倒れる戦友たちにキニーネを与えて命を救った。Aさんは連合軍の捕虜となり、シンガポールから南ヘ60キロのレンパン島に抑留された。無人島生活は過酷・悲惨を極めたが、キニ一ネのおかげでマラリア罹患の戦友たちの命を救った。キニーネは今も資料館で「命」の重さを伝えている。」

「面会の帰りに米軍機が襲来 86

昭和204月、旧制中学1年生で軍事教練の毎日でした。春休みのある日、旧福岡陸軍連隊に入隊中の兄に両親と面会に行った。衛門で面会許可証をもらい、指定場所で兄と面会できた。兄は訓練が厳しいのか食料が少ないのか、入隊前よりやせて見えた。楽しい面会が終わり、連隊前の西鉄電停ヘ行くと突然、サイレンが3回鳴った。敵機襲来で、米軍ロッキ一ドとグラマンの攻撃が始まったのだ。急いで近くの屋根下ヘ飛び込んだ。幸い連隊の対空放射器が対応してくれたので敵機は転進した。帰路、福岡駅から小倉行きの列車に乗った。遅れて小倉駅に着いた。機関車に石炭を補給中、 石炭をたく灯に向けてまたもや敵戦闘機が攻撃してきた。敵機が駅のホームと列車の間に向けて攻撃してきたので、私たちは下車できず車内で椅子の下にもぐった。車外ではダン、ブスッ、という音が続いた。別に怖くはなかった。約20分で終わった。」


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-21 06:30 | 平和を | Comments(0)

近代日本のアジア侵略


f0239450_09571886.jpg

1937年は盧溝橋事件に始まり、1945年の敗戦までの戦争の時代となります。「自衛権発動」という大義の名の下に。

「『自衛権発動』という名目で行われた日本軍の北支派兵

七月十一日という日は、慮溝橋事件の発生から四日後に当たりますが、この日に近衛政権がとったいくつかの行動は、結果として日本という国のその後の針路を決定づける、きわめて重要な意味を持っていました。

この日の閣議で近衛内閣が決定した「北支派兵」について、七月十二日付大朝朝刊一面は、 説明に基づき「自衛権発動の派兵」という見出しで報じました。また、七月十一日の緊急閣議では、中国との間で発生した武力紛争の日本側の呼び名を「北支事変」とすることが決定しました(以後、九同月二日まで)。事変とは、正式な宣戦布告を伴う戦争には至らないも

のの、一定以上の規模で行われる戦闘や軍事衝突(武力紛争)を指す言葉です。」(『1937年の日本人』)

しかし、近代に入る前まで対外戦争は3度しかなかったという。それが近代に入って日清・日露に続く先の大戦と続きます。それも、戦場を中国や朝鮮半島でしています。次のような

見解もあります。

「近代日本のアジア侵略の淵源

こうなると、戦争を(ほとんど)してこなかった日本が、何故に近代に突然、アジアへの侵略をはじめたかが問題になる。私はまったく近現代史の素人なので、軽率なことは言えないが、それでも日本史研究者として、個人的な見通しだけは述べておくこととしたい。何故に近代日本は「明治維新」後に突然、朝鮮に目を向け、侵略に踏み切ったのであろうか。もちろん、直接的には藩閥政府の帝国主義への志向と、帝国陸海軍の内包した矛盾に解明の道があるのであろう。しかし、さらにその淵源は、古代の倭国や日本にあり、そして長い歴史を通じて醸成され、蓄積された小帝国志向、それに対朝鮮観と敵国視が、幾度にもわたって記憶の呼び戻しと再生産をもたらし、近代日本人のDNAに植えつけられてしまっていたことにあるのではないか。」(『戦争の日本古代史』)


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-20 07:56 | 平和を | Comments(0)

外国のことは分からない

f0239450_10225607.jpg

「条件なしで平和条約」というプーチン。平和条約締結の意欲の表れという人と、「北方領土」は返さないというメッセージだという人と。何らかの事前の動きはなかったのか。こんなことを思ったのは次のようなコラムを読んだからです。

「コラム デスク日記

 薄暗い部屋が、さらに重苦しさを増した。10年前の秋、夜遅くに日銀本店内で幹部と非公式で会った。米国証券会社リーマン・ブラザーズが破綻してしばらく後だった。

 幹部はぼそぼそと「向こうにはかなり前から言ってたんだよ」。リーマン破綻に向かおうとする米政府側に「もし破綻させれば一機関の倒産に終わらず、全世界が混乱する」と警告していたというのだ。そんな危機感は、事前に公にされることはなかった。別の日銀幹部は後にこうも語った。「戦場で指揮官がしちゃいけないのは『ドント・パニック(パニックになるな)』と叫ぶこと」

 実際に世界のマーケットが大混乱する中、「自分たちは知っていた」という話を今聞かされても、と正直感じた。

 2008年9月15日に始まるリーマン・ショックから10年。金融のプロたちは今、水面下でどんな危機感を持ち、どんな暗闘を繰り広げているのだろうか。 (川合秀紀)

2018/09/14付 西日本新聞朝刊=」

トランプ氏の「アメリカファースト」にアメリカ国民は疑問を持たないのかというと、日本国民は・・・と切り返されそうです。アメリカに強大なハリケーンがきているという。地球温暖化について見解はいろいろあるようですが、国際機関からアメリカは離脱しています。ここまでアメリカ中心にされると「待てよ」という声はあがらないのかと思うのだが。


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-19 06:22 | 平和を | Comments(0)

「ファントム」

f0239450_09334760.jpg

60年代、現在の福岡市東区の団地に住んでいました。当時は、板付の米軍基地(現・福岡空港)もあり(今もある)、頻繁に離着陸していました。旅客機も含めてコースに納得ているので、騒音は激しいものでした。そのときに、当時の九大箱崎キャンパスに米軍機が墜落しました。

「コラム 花時計

亡霊、幽霊を意味する、「ファントム」と命名された米軍機が19686月、九州大箱崎キャンパスに墜落して閃年が過ぎた。炎上した機体は、学生の抵抗で約7カ月間、建物にぶら下がったままだった。▽67年の米原子力空母エンタープライズ佐世保港寄港、68年のファントム機墜落、そして安保闘争・・・。ある九大のOBは「いやおうなく学生運動に燃えた」と振り 返る。泥沼化するベトナ ム戦争に反発して反戦ム一ドが高まり、大学紛争は激化の一途。九大教養部の学生会館は各セクトが占拠、バリケード封鎖した▽国の安全保障問題が日々の生活でも可視化されていた時代。とはいえ目を凝らせば今も、米軍基地や日米安保、戦争と平和の問題は、私たちにのしかかっている。引き下ろせないファントムのように。(鶴加寿子)」( 2018710日西日本新聞)

 今では米軍の存在など福岡では話題になりませんが、沖縄では続いています。


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-17 06:33 | 平和を | Comments(0)

軍隊がない国も


ローカルな話題ですが、今は分かりにくいと思います。

「箱崎線の駅名改称はいかが 60

地下鉄箱崎線(福岡市)に乗って福岡県庁を訪問しようとすると、「千代県庁口」ではなく隣の「馬出九大病院前」で降りなくてならず紛らわしい。箱崎地区の九州大学移転が完了間近となった今、「箱崎九大前」を含めた3駅名の改称を考えてはどうだろうか。都市の地下鉄の駅名改称とはいえ、全国のシステムに直結している現在では大きなコストを要するだろう。そこで工事が完成する七隈線延伸開業に合わせ改称することを提案する。 「千代県庁口」「馬出九大病院前」はそれぞれ「千代町」「馬出」と簡潔な駅名とし、「馬出」には「県 庁・九大病院前」という副駅名を表示すれば、訪問者への的確な案内となる。(以下略)」(

2018627日西日本新聞)

 経済大国だから抑止力が必要という意見は分かるような気がしますが、9条を守るということは専守防衛を否定するものではないと思う。自衛隊を専守防衛組織として在り方を議論していいと思う。

「戦争には反対 抑止力は必要  54

安倍晋三首相が目指す憲法状改正について、議論が起きています。護憲の考えを持つ人たちは「戦争はしてはいけない。だから9条を変えてはいけない」と言つています。、私も戦争に反対 です。しかし、憲法9条を守っていれば平和が保たれるかどうかと考えると、決してそうは思えません。 なぜなら、犯罪を取り締まる法律があっても犯罪が止まることがないからです。銀行は現金輸送車に警備員がいることで泥棒や強盗を未然に防ぐことが可能となるのです。抑止力は必要です。

世界3位の経済大国日本が丸裸状態でいるのではどう考えても非常に危険だと思います。戦後70年以上経過して、憲法改正をしていない国の方が珍しいということも知っておいた方がいいのではないでしょうか。」(同前)


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-09 07:49 | 平和を | Comments(0)

f0239450_10342391.jpg

「女性投稿欄 紅皿 打倒 ナメクジ

福岡空襲で焼け出され、戦後はバラックで暮らした。生活水は長屋共用の井戸。翌朝の米を とぐため井戸ヘ行き、月あかりを頼りにポンプの持ち手をつかんだらぬるっとした。ナメクジだ。軽石でこすってもぬめりはなかなか取れな い。その夜、巨大なナメクジが夢に現れ、うなされた。私は15歳だった。家庭を持ち粗末な借家に住んでいた20代、悪 夢が現実になった。朝、台所の明かりをつけた ら、流しに人さし指大のナメクジがいる。悲鳴で起きた夫が始末。食事のたびに不気味な幻影がちらついて食が進まなくなった。 30代で手に入れたマイホームは安普請の中古で床下の通気が悪い。梅雨時の朝、布団をたたんでいると畳のヘりに銀色の筋が光った。夜行性のあのものが畳の隙間から侵入し顔の辺りを徘徊したなんて「許せない!」。(以下略)82歳 」(2018627日西日本新聞)

私などは田舎育ちなのでナメクジは慣れていますが、戦後の福岡もこんな風景だったのですね。

全国で分担をというのですが、その前にオスプレイなど配備先が拡大しています。アメリカの言うがままで良いのでしょうか。

「沖縄基地問題全国で負担を  28

623日、沖縄慰霊の日を迎え、慰霊式典を報道などで拝見しました。翁長雄志沖縄県知事は膵臓がん手術後の出席。やせられた姿が闘病の大変さを物語って おり、基地問題という重荷 を背負わせてしまっていることに「本土」の人間として、じくじたる思いを強く しました。平和宣言を述べている際の知事のまなざしは鋭く、 沖縄を守り、世界の懸け橋になるという気概がひしひしと伝わり、思わず落涙してしまいました。 平和宣言では「米軍基地問題は、国民全体で負担するもの」と発言されています。こうした主張は歴代知事のみならず沖縄県民もずっと示してきたことです。「日米安保の恩恵にあずかるなら、その負担部分も全国で応分に負担してくれ」。 当然の声だと思います。これ以上、沖縄におんぶされるのはやめにしたいのです。」(同前)


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-05 06:33 | 平和を | Comments(0)

少年兵は

f0239450_09471382.jpg

2018622日西日本新聞の戦争体験記からです。

15歳の少年兵 戦闘訓練に涙  89

陸軍は昭和20年、70年余に及ぶ栄光と悲惨の歴史に終止符を打った。長かった一日の課業も終り、日夕点呼、点呼終了後、班内に響くビンタ(平手打ち)の音。内務班で夜ごと繰りひろげられる班長のシゴキ。口腔が切れ口中に広がる血のりの味。「おまえら、それでも帝国陸軍の一員と言えるのか。何だ今日のザマは。2名もの落伍者を出し、恥を知れ恥を・・・」と班長の怒声。 連帯責任というヤツだ。30度を超す炎天下の戦闘訓練。完全武装で山野を駆け巡る遭遇戦。息も絶えだえほふく前進で突撃の白兵戦。引き続き夜を徹しての強行軍。歩きながら眠るのか、眠りながら歩くのか、疲労と睡魔との死闘。息もできないほど、胸を締めつける背嚢の負い革と、肩に重くのしかかる歩兵銃。15歳の少年の体力には、あまりにも過酷すぎる試練。1時間近く続いた夜のシゴキも終わり、やっと解放。ベッドにもぐり込むと校庭から響く消灯ラッパ。と同時に不寝番の「ショウトウー」の叫び声。父さん、母さん元気だろうか。思わずポロリと落涙、枕をぬらした。」

「 白い墓石群に米軍機銃掃射  78

私の知人のお話です。1 945619日の福岡大空襲時は12歳。夜中から未明にかけて米軍B29爆撃機によって投下された焼夷弾で福岡市全域が被害に遭った。当時、福岡市郊外(現福岡県久山町)に住んでいた。 米軍は畑や田んぼの中に点在していた多くの白い墓石に向かって機銃掃射をし た。幸いにも家は無傷で白い墓だけが破壊された。これを見て不思議でならなかった。後で分かったが、石 造りの大きな白い墓石群を 初めて見た米軍の操縦士は日本軍の何かの施設と思い機銃掃射したのだろうということだった。

福岡大空襲で死者約900人、行方不明約250人という甚大な被害が出たが、約10キロしか離れていない場所には、墓は崩れたが住宅や人命には被害はなかった。墓にいる祖先の魂が

自分たちを守ってくれたのだと信じている。」


[PR]
by kibouh1 | 2018-09-02 06:46 | 平和を | Comments(0)