気ままなつぶやきです


by kibouh1

カテゴリ:平和を( 563 )

軍歴が調べられるという

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「コラム 花時計

「親族の軍歴を調べることができますよ」。同僚の言葉がきっかけで、祖父の軍歴を知りたいと故郷・山口の役所に問い合わせた▽父方の祖父は、太平洋戦争中に満鉄に勤め、父はハルビンで生まれた。戦後は故郷で魚専門の料理屋を営んでいたが、脳卒中で倒れ、私が物心ついたときには寝たきりだった。言葉もうまく出なかったので、祖父と話した記憶はない戸籍謄本申請などの手続きを経て、ようやく軍歴証明を手にした。旅順、新京(現・長春)。記されている地名が、急に身近に感じられた県の担当部署によると、親族の軍歴資料を申請する人は近年増えているという。会いにいくと、いつも涙を流していた祖父。遠く離れていく昭和の戦争で、祖父の足跡をつかめたことは感慨深い。(藤村玲子) 」(20181120日西日本新聞)

その戦場のことが書かれていました。

「戦場の凄惨さ 水筒は訴える 69

戦死率97%の激戦地フィリピンのレイテ島。遺骨収集に行かれた方が遺骨代わりに持ち帰った兵士の遺品が数多くあります。その中に水筒がある。穴が2カ所開き、名前が刻み込まれている。穴は下から斜め上に銃弾が貫通したもののようだ。戦場の凄惨さがリアルに垣間見える。 刻まれた名は片仮名で「イワサカ」と判読できる。支給された装備品に名を刻むことは許されない。あえてそうした兵士の心情を考えると胸が痛くなる。補給を断たれながらも、現地で徹底抗戦を命ぜられた兵士たちは多くが餓死に追い込まれた。重い銃は捨てても、命をつなぐよりどころだった水筒だけは絶対に身から離すことができなかったのではないかと推測する。水筒の無言の訴えに改めて兵士の無念と無謀な戦争 に突き進んだ戦争指導者の 責任を痛感する。」(20181130日西日本新聞)


by kibouh1 | 2019-01-07 05:00 | 平和を | Comments(0)

1937年のクリスマス

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1937年の77日に先の戦争の発端となった日中戦争が始まります。その年のクリスマスはどうなったのでしょう。

「年の暮れに開かれる市民の楽しみといえば、華やかなクリスマス・パーティーですが、一九三七 年の十二月は、それすらも国による統制の対象となっていました。十二月十六日付大朝朝刊七面は、「自粛のクリスマス」「特殊の催しは中止させる」との見出しで、次のような内容を報じましたが、これは事実上、公共の場所でのクリスマス・パーティーを政府が禁じて、警察の取り締まりの対象にするというものでした。「クリスマスが近づいて来たので、大阪府警察部では警保局長(内務省)の通牒により、当日はカフェ、パー、喫茶店、ホテル、興行場でクリスマスを名に営業時間や興行時間を延長したり、仮装舞踏会などを 催したりするものが多いが、かかる特殊の催し物を認めることは、非常時の今日面白からぬ影響を与えるものであり、ことに二十五日は挙国敬虔の念をもって迎え奉るべき大正天皇祭の日に当たるので、当局で はこれらの催しを許可せぬ方針をとっている。」(『1937年の日本人』)


by kibouh1 | 2019-01-04 06:24 | 平和を | Comments(0)

少年の夢

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2018119日西日本新聞の戦争体験記からです。

「終戦で消えた少年時代の夢   86

昭和16年に入ると、戦争が間近に迫っていることが私たち小学6年生の子どもも感じられた。山口県下関市と門司市(現北九州市)を隔てる関門海峡の両側の小高い山には、陸軍の要塞ができた。 3月に卒業し4月から中学ヘ進学する者、小学校卒業後、家業を継ぐ者と分 かれた。家事労働する者が少ないので地元工場、農業、 漁業する者が家を守る立場だった。

私は幸い兄3人が入隊前で中学ヘ進学できた。4月に入学するとミニ軍隊生活で、教育目標は職業軍人、幹部軍人養成所のようだった。基本教育は教育勅語で、軍人勅諭の教育生活だ

った。

粗衣粗食で体力と暗記力強化にまい進した。目標は高級軍人、高級役人である。苦しさに不満はなかった。理由も分からずに上級生に殴られるのは不平が出たが、毎日の生活目標があったので楽しかった。ところが、昭和20815日、敗戦国となり、私の少年時代の夢は消えた。幸か不幸か分からない。」

「波状爆撃 無残な犠牲者   88

かつて東洋一と言われた大刀洗には、飛行隊、第百部隊、憲兵隊、そして大刀洗製作所、同航空廠などの軍需工場が立ち並び、活況を呈した。このような中、昭和20327(1次〉 米軍のB29大編隊による波状爆撃に遭い、犠牲者は千人を超えたと聞く。この中には軍人、職工、女子挺身隊、学徒たちがいた。翌28日に現状を見た。まだ手つかずで、無残な犠牲者がゴロゴロ・・・地獄図というか筆舌に尽くしがたいものだった。一方、近くの立石国民学校生の下校中に爆弾が直撃し、31人の学童の爆死も見た。

このころ、米軍人捕虜が九州帝国大学(現九州大学)医学部において軍の命令による生体解剖事件もあった。戦争とはこのような敵、味方なく悲惨なものであることを後世に語り継ぎたい。」

「繰り上げ卒業、徴兵も前倒し 93

昭和16128日の大東亜(太平洋)戦争勃発後、173月卒業予定だった大学、専門学校および中等学校(商業、工業科)の学生、生徒に対し、1612月中の繰り止げ卒業が決まった。 当時、私は商業学校の生徒で、これに該当。12月下旬に繰り上げ卒業し翌17 1月に就職した。男子は数え年の20歳で徴兵検査を受け、約半年後、現役兵として徴兵され入隊となった。ところが、昭和19年から徴兵検査は1歳繰り上げられ数え年の19歳に。入隊条件も甲種および第一乙種合格に限られていたものが第二、第三乙種合格者まで拡大された。私の場合、昭和198月に徴兵検査を受け、第一乙種合格で101日、福岡部 隊に入隊となった。約2週間後、ソ満国境の牡丹江省東寧県老黒山ヘ。約2カ月後、部隊の南進に伴い台湾高雄南部海岸線防衛につき終戦を迎えた。

顧みれば、徴兵検査の1年繰り上げがなければ、軍隊経験せずに済んだだろう。」


by kibouh1 | 2018-12-22 06:59 | 平和を | Comments(0)

そんな馬鹿な

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128日はアメリカとの戦争に突入した日です。

「コラム 風向計  「真珠湾の不時着機」 編集委員 上別府 保慶

 佐賀県で育ち野球に親しんだ人には、22年前に公開された自主映画「人間の翼 最後のキャッチボール」を見た方がきっと多かろうと思う。1922(大正11)年、佐賀市水ケ江に生まれた伝説の速球投手、石丸進一さんの青春を描いたドラマである。

 石丸さんは佐賀商業学校のエースとして鳴らした。唐津中学に敗れて甲子園行きは逃したものの、職業野球の名古屋軍(今の中日ドラゴンズ)に入り、43(昭和18)年10月12日の対大和軍戦でノーヒットノーランを達成した。

 しかし、召集されて神風特別攻撃隊に加わり、終戦の3カ月前に鹿児島県の鹿屋基地から沖縄方面へ飛び立ち、帰らなかった。22歳だった。

 この映画の原作「消えた春 特攻に散った投手石丸進一」(河出文庫)を書いたのは石丸さんの12歳下のいとこ、牛島秀彦さんだった。佐賀高から早稲田大へ進み、出版社に勤めた後に米国留学し、ハワイに移り住んだ。他のノンフィクション作品に「真珠湾の不時着機 二人だけの戦争」(同)がある。

 41年12月8日の真珠湾攻撃に参加した航空機の搭乗員には、被弾するなどして空母に戻れない場合、ハワイ諸島西端のニイハウ島へ不時着するよう指示があった。この小島には米軍がおらず、潜水艦で収容する手はずだった。

 実際にニイハウ島へ不時着したのは、空母「飛龍」のゼロ戦搭乗員、西開地(にしかいち)重徳さん(愛媛県出身)1人だった。胴体着陸して救出を待つ中、先住ハワイ人から敵として追われ、西開地さんをかばおうと間に立った日系2世のハラダ・ヨシオさんともども、混乱の中で命を落とした。(略)

 ウメノさんは夫を失っただけでなく、国家反逆罪のぬれぎぬを着せられ、子供たちとも引き離されて3年近く獄中にいた。ハラダさんの弟もスパイの汚名をすすぐために、2世部隊に志願して欧州で戦った。真珠湾奇襲の成功を伝える大本営発表のラジオ臨時ニュースが日本中で鳴り響いたあの時、ハワイで平和に暮らしていた日系人は、どん底に突き落とされたのだ。

 著者の牛島さんは99年に64歳で病死した。太平洋戦争の開戦から77年が過ぎようとする今、多くの方にその労作を読んでいただけたらと願う。=2018/12/06付 西日本新聞朝刊=」

戦争の時代とは言え、国家反逆罪などの懲罰を受けるとは。


by kibouh1 | 2018-12-17 06:18 | 平和を | Comments(0)

「筑紫峠」の悲惨

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2018112日西日本新聞の戦争体験投稿欄からです。

「小倉軍需工場日田市に疎開 89

神社の境内に立つ石碑に、次のような文字が書いてある。「小倉陸軍造兵廠本部終焉の地日田市周辺昭和20815日」。従業員の鎮魂の誠意を含め 以下略。

昭和196月、米軍B29爆撃機が北九州工業地帯を初めて空襲した。以後、日本本上空襲が激化した。軍需産業の拠点であった八幡製鉄所、小倉陸軍造兵廠などへの空襲が続いた。軍は工場の疎開を決め、山間地の日田が選ばれ移転工事を始めた。 山腹に横穴壕を掘り、兵器製造、部品工場など付近にはバラック建ての従業員宿舎が立ち並び、すべての工事には地区人、動員学徒、女子報国隊、さらに兵役免除者などが遠近問わずに働かされた。父は50代。住居は熊本県境にあり、日田まで往復50キロの道程を徒歩で早朝出発。帰宅は日が暮れてからであった。」

「遺体は白骨化筑紫峠の地獄 96

ビルマ(現ミャンマー)で菊隊が最も悲惨を極めた脱出路「筑紫峠」。あの峠を生き延びた人のすべてが、生きる限り忘れることはないであろう。地獄絵図、約9カ月のフーコン作戦。 撤退路は敵に遮断され約6 00メートルの山頂に伐開路を造った。 患者を先頭にした山越え は、雨期のため伐開路が膝まで没する泥と化し、思も 絶え絶えとする幾百の患者 群。うじ虫の死骸、白骨化 した遺体、白骨街道と化した「筑紫峠」は地獄の針の山であった。 「水をください、水を」。水をほしがる患者の願いを無視して通る私たちも衰弱。 ただ気力だけで山砲を分解して背に負う身には、他人を助ける余力はなかった。インパール作戦に惨敗した153個師団の生き残りが後方に撤退するまでは、フーコン作戦死守の命令に従い、最後尾で撤退するわが菊部隊。「筑紫峠を越えるまでは」と希望の灯を消され戦没した戦友の霊を弔う者は、私一人になった今日である。」

「私を守るため体張った両親  78

福岡大空襲で先祖伝来の屋敷が焼失し、かわいい盛りの弟は薬もなく急性腎臓炎で死んだ。近所の人が首がぶら下がった赤ん坊を背負ったまま、奇声を発して目の前を走っていった。8人家族は食料難。かわいが っていたウサギを知らぬ間 においしいと食べていた。幼心に悲しくても泣けない 日々が続く。 農家に米、芋を分けてもらいに行った。母の着物と交換するのだ。樋井川(福岡市)の土手で、後方の空路から低空の飛行機が現れた。母はとっさに雨で割れた土手に私を押し込み畑の芋づるを引きちぎってかぶせ、母の体が私を覆った。

銃口を私たちからそらすため、父が手を振りながら空を見上げ離れていく。 「お父さぁん、伏せてえ !絶叫する母。飛行機は父のわずか40センチ横を連打し、ゆっくり遠ざかった。走って戻った父に「笑いながら撃ってたんですよ。良かったあ」。母の大きな泣き声を初めて聞いた。体を張って私を守ってくれた両親の深い愛を、今も忘れはしない。」


by kibouh1 | 2018-12-14 05:27 | 平和を | Comments(0)

心病む兵士

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20181130日西日本新聞の戦争手記からです。戦後も入院を続けた人が最近までいたという記事を読んだような記憶があります。

「精神病む兵士 胸がつぶれる  64

20年近く前、当時高校生だった息子から手紙をもらった。学校の課外活動の一環だった。たった2枚の短い手紙。武骨な字で「生まれてよかった」と書いであった。 反対に「何のために生まれてきたのか、分からない」 と言う言葉がテレビから耳に入ってきた。戦時中に精神を患った兵士たちの「病床日誌」記録のドキュメンタリーだった。 和菓子職人だった青年は訓練で持ったこともない銃を渡され、恐怖心から神経を病んだ。終戦になっても、家族も引き取れない状況。以後60年も続いた隔離。今もなお病床日誌を研究している方がいる。彼の父親も戦争で神経障害を起こし、晩年まで苦しまれた。亡くなる前は戦争の記憶がよみがえり・・・。和菓子職人だった青年。お姉さんが彼を見舞った。その帰り「あの子は何のために生まれてきたのだろう」とつぶやいた。私の心が泣いた。」

「粗末な防空壕そばに焼夷弾  79

私の戦争の思い出は怖い、恐ろしい、ひもじいに尽きます。昭和208月の敗戦。私 は国民学校1年生でした。 終戦前は空襲が激しく、特に福岡・大牟田は軍需工場が集積していたため、何度も空襲を受げました。授業中でも、空襲警報のサイレンが鳴ると、授業は

即中止。上級生に連れられ、駆け足で一目散に自宅に飛んで帰り、防空壕に飛び込みました。防空壕といっても、映画とかで見る、あんな頑丈で立派なものではありません。形だけのお粗末なもので、焼夷弾の直撃を受ければひとたまりもあ りません。1度だけ、私たちが避難した防空壕のすぐ そばに焼夷弾が落ちたこと があります。怖くて生きた心地はしませんでした。幸い誰もけがをせず本当に良かったです。もう戦争だけはごめんこうむりたい。」


by kibouh1 | 2018-12-05 06:28 | 平和を | Comments(0)

非戦闘員の死は

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新聞の投稿欄からです。

「(声)非戦闘員の虐殺に消えぬ怒り 96歳 201889日朝日新聞

 悲惨な光景が、目に焼き付いて離れない。73年前。長崎への原爆投下時、私は佐世保鎮守府第一特別陸戦隊司令部に所属する海軍中尉だった。連絡任務で本部に呼び出され、飛び乗った汽車の中で見たそれは、粗むしろに横たえられ水を求め喘(あえ)いでいる、原爆にやられた1人の労働者の無残な姿だった。

 逃げるようにその場を離れたが、別の客車では、両目をやられた女学生が「痛いよ痛いよ」と母親らしい人に訴えていた。「もうすぐだから我慢しなさい」というだけでなすすべもない親子を見て、私は天を仰ぎ、怒り、この阿鼻叫喚(あびきょうかん)の地獄をもたらした米軍の原爆投下に激怒した。

 戦時国際法にも違反した非戦闘員の無差別大量虐殺。アメリカは人類の歴史が続く限り、この戦争犯罪のためにいばらを背負うべきだと思った。

 ところが戦後、政府もマスメディアからも、こうした声は寡聞にして聞かない。それでは、阿鼻叫喚の中で命を失った多数の霊が浮かばれない。(以下略)」

戦争で犠牲になるのは国民です。先の戦争では結局その責任はあいまいなままでした。再び緊張を演出する人たちに騙されないようにしたい。


by kibouh1 | 2018-11-29 06:26 | 平和を | Comments(0)

平和ために行動を

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2018105日西日本新聞のの戦争体験投稿欄からです。

「行動しないと平和得られず  60

元日本兵の話を聞いた。当時15歳。ジャングルで、負傷した同僚と行動すれば自分たちが危うくなるため置き去りにした。食料を略奪したが捕まり、次々に処刑された。あと2人で自分の番だという時、通りがかった米兵に救われたという。映画化された大岡昇平の「野火」の映像を思わせる残酷さだった。 戦争を悪だと思う人は多いが、戦争でもうける人も多い。権力者には、戦争は権力を一手に握ることができるため魅力と映るのだろう。戦争を体験していない私は戦争の怖さや非人間性を心に刻むため、機会があればこのような話を聞き、映画館に足を運ぶ。被爆者とひめゆり学徒の方が「どんなにひもじい思いをしても、貧乏であっても、戦争には絶対反対しましょうね」と意気投合された話を思い出す。戦争をしたがる人がいる限り、戦争をしたくない人は学び、行動しなければ平和は得られないと、ようやく気付いた。」

「被爆者手帳はなぜ18年後に  72

父は兵役先の広島で被爆しました。私は昭和21年、終戦の翌年に生まれました。被爆2世ですが特に大きな病もせず、元気に育ちました。多くを語らない父でしたが、優しく育ててくれました。記憶にあるのは、父が被爆者手帳を申請してもなかなか交付されなかったことです。交付されたのは18年後ではなかったでしょうか。爆心地の広島では遺体、動物をトラックで片付ける作業に追われたようです。おそらく今夏のような猛暑の中苦しい気持ちだったでしょう。白血球減少は当たり前、肋骨も半分取りましたが、90歳の長寿で他界しました。被爆者手帳がなぜすぐに交付されなかったのか不思議です。」

「炎のトンネル必死で抜けた  63

22年前、息子の小学校の平和授業で「家族に戦争体験を聞く」という宿題がでたことで、亡き母から聞けた話です。当時16歳の母と祖母は福岡大空襲の夜、博多座(福岡市博多区)にあった銀行の地下に避難していた。爆弾音がだんだん近づいたので「ここも危ない」と抜け出した。坊やをおんぶした知人と一緒に逃げる途中「これをかぶって行きんしゃい!」 と布団を防火用水に浸して 掛けてくれた人がいた。 火だるまで転げ回る人、真っ赤に燃える病院が焼け落ちるのを見ながら、死にたくないと必死で炎のトンネルを突破した。やがて冷

たい風が頬に当たった。助かった。坊やに掛けた布団はカラカラに乾いていた。朝、水を飲もうと防火水槽をのぞくと遺体が沈んでいた」


by kibouh1 | 2018-11-27 06:57 | 平和を | Comments(0)

沖縄を利用していないか

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別の報道によれば、国は沖縄の負担軽減のためにと説明したというが、沖縄のどれが軽減されたのか。本土利用を進めるための口実になっていないか。

「オスプレイ訓練に反発の声 「住民の不安根強い」 日出生台周辺自治体など [大分県]

 陸上自衛隊日出生台演習場(由布市、玖珠町、九重町)で米軍輸送機オスプレイを使った日米共同訓練が12月に実施されることが19日、明らかになった。沖縄の基地負担軽減のため、県では既に同演習場での米海兵隊の実弾射撃訓練を受け入れており、危険性が指摘されるオスプレイによる訓練追加について、地元自治体や住民からは「住民の不安は根強い」「容認できない」と反発の声が上がった。

 九州防衛局によると、訓練は12月7~19日、日出生台演習場と十文字原演習場(別府市、杵築市、日出町)などで実施。オスプレイは12日と16日、日出生台演習場と周辺で最大4機が飛行し、自衛隊員や米海兵隊員の輸送訓練を行う。

 広瀬知事や地元6市町の市長らは19日、県庁で九州防衛局の三貝哲局長から説明を受け、広瀬知事は「了解できない」と反発、その場で抗議した。

 訓練まで時間が迫る中での説明に首長らは不満を示す一方で、訓練実施は避けられないと推察しての発言も。宿利政和玖珠町長は「オスプレイに対し、町民は不安感を持っている。事故を絶対に起こさないという緊張感を持ってほしい」とぶぜんとした表情で語った。

 別府市の長野恭紘市長は「市民の安全・安心の確保を第一とし、市民生活および観光に支障を来すことがないよう、国として万全な対策を講じるよう、県と周辺自治体とともに要望したい」とのコメントを出した。別府市は20日、市役所に対策本部を設置。市長を本部長に約50人態勢で関係機関との連絡や情報収集に当たり、協議事項があれば本部会議を開催するという。

 地元住民も憤りをあらわにした。日出生台演習場の近くで牛の飼育を行い、実弾射撃訓練に当初から反対している畜産業衛藤洋次さん(59)=玖珠町=は「射撃訓練だけでも不安感があるのに、オスプレイまで来るとは」と語気を強めた。演習場のそばには、家族が暮らす集落もあり「事故はいつ起こるか分からない。上空を飛ぶのは許せない」と憤った。

 実弾射撃訓練に反対する市民団体「草の根の会・中津」の梶原得三郎代表=中津市=は「県内での米軍の訓練は強化されている。県民の生命と財産を守るために、県は国にはっきり訓練停止を要求すべきだ」と注文を付けた。=2018/11/20付 西日本新聞朝刊=」


by kibouh1 | 2018-11-25 06:13 | 平和を | Comments(0)

子どもでも負けると

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2018921日西日本新聞の戦争体験記からです。

「子どもなりに負けると思い  87

戦争が始まったのは小学校4年生の時だった。パンザイと叫んだ。米国、英国、中国、オランダのABCD包囲で物資の供給が止められていたからだ。戦争には石炭、石油、鉄、アルミニウムが要るが、日本の産出量は無いか、ほんのわずかだった。

戦艦は完成まで2年、空母は4年かかる。4年後の昭和20年には空母20隻で日 本列島沿いに航海し日本の 都市を爆撃するとの予告を聞いた。子どもなりにその 昭和20年を記憶していた。 飯塚(福岡県)には炭鉱 があり、オーストラリアの捕虜が地下で働いていたので爆撃は無かったが、週に1回くらいは炭鉱事故で死んだ。捕虜たちは市の火葬場に連れて行かれ、その隊列から刑を恐れずキャベツ畑に走り、生で食べる若者がいた。飯塚からは長崎の 原爆も、八幡の爆撃も、福岡空襲の炎も夜空に見え た。子どもでも戦争は負けると思った。」

「子をかばう母 壕で焼け死ぬ  86

昭和19年ごろになると空襲が激しくなり、防空壕掘りが日課となった。大別すると、山肌や崖などを利用した横穴式、空き地や歩道 には縦穴式(半地下式)、民家が密集した下町は床下に 掘った簡易な壕の3種類。 壕も出入り口が1切所と2 カ所では火勢や煙によって生存率が違ったようだ。 長崎県佐世保市の大空襲時は旧制中学2年生の13歳。学校で当直をしていた。校庭にあった出入り口2カ所の縦穴式壕に退避したが、焼夷弾が転がり込んだので他の出入り口から脱出した。悲惨なのは床下式 で、母親が幼い子どもをかばうように覆いかぶさってん亡くなっていたそうだ。火の雨のように襲いかかる焼 夷弾で瞬時に焼け落ちる家 屋によって蒸し焼き同然だったと思われる。なんとむごいことか。一部の指導者の暴走で起きた先の大戦の犠牲者は約310万人。私も父親と2人の妹を亡くした。相手を殺さないと分が殺される。これが戦争である。二度と同じ過ちを繰り返さないことをひたすら祈念する。」

もう「過ち」に足を踏み込んではいないか。


by kibouh1 | 2018-11-22 06:58 | 平和を | Comments(0)