気ままなつぶやきです


by kibouh1

カテゴリ:水俣( 6 )

水俣病の歴史にも

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「吉永小百合さん「日本も核兵器禁止条約に賛同を」 | NHKニュース」という。頼もしい。

「コラム 春秋

 水俣病の事件史には国ぐるみの欺瞞(ぎまん)、あるいは策謀とも呼べる期間がある。患者発生の公式な確認は1956年。早くからチッソ水俣工場の工場排水が原因に疑われていながら、国が正式に断定するのは68年に至ってからだ

▼この12年の間、有毒な廃水は流され続ける。工場はひそかに排水口を変更したため、被害は不知火海沿岸一帯に広がった。厚生省(以下、いずれも当時)は工場が発生源と指摘したが通産省は強く反発。排水を規制しないばかりか、徹底して企業の擁護に回った

▼なぜか。経済企画庁の幹部は後年、本紙の取材に答えている。「みんな知ってたんだよ、原因が工場排水にあることは。しょうがなかったんだ」。対策を求めた水産庁の課長は関係省庁の会議で諭された。「一言で言えば工業立国だよ」

▼時は高度経済成長期。業界トップのチッソ工場の操業規制は、国内の産業全体に重大な影響を与える恐れがあった。「人命より経済優先」。早期終息も可能だったはずの水俣病は、高度成長の犠牲になって拡大した

▼68年9月26日、国は水俣病を公害認定する。チッソが原因物質を生み出したプラントの操業を終えたのは、その数カ月前。「政府は製造の終了まで待ってやった」。そんな見方もある

▼2度の「政治決着」を経たが、今も健康被害を訴え救済を求める人は絶えない。取り繕いか。混迷、切り捨てか。この半世紀を何と呼ぼう。=2018/09/25付 西日本新聞朝刊=」

疑いをもった段階での対応があれば、こんなに被害が広がらなかったかもしれないのでは。


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by kibouh1 | 2018-10-02 06:54 | 水俣 | Comments(0)

新聞1面に

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「仲畑流・万能川柳   毎日新聞2017929日 東京朝刊

☆印は秀逸(仲畑貴志選)

☆孫が来た時は「いただきます」を言う 神奈川 カトンボ

ポケットの中ぜんぶ出て逆(さか)あがり 大阪 小山照子

妻ピアノ弾くと仔猫が耳をかく 藤枝 萩原里美

もう四年卒業なのにフリーター 韓国 李相悦

立ちション中監視カメラと目が合って 宮崎 佐土原ナス(以下略)」

坂本さんの話が1面になってもらいたいと思いました。

「坂本しのぶさん、水銀規制訴え 水俣条約会議でスピーチ

20170928日西日本新聞

【ジュネーブ共同】熊本県水俣市の胎児性水俣病患者坂本しのぶさん(61)は28日、「水銀に関する水俣条約」第1回締約国会議が開かれているスイス・ジュネーブの国際会議場でスピーチし「水俣病は終わっていない。公害を起こさないでください」と訴えた。

 坂本さんは、水俣病を巡る訴訟が続いていることや、水銀を含む汚泥が市内の埋め立て地で管理されていることから、水俣病問題は未解決だとした。工場排水由来のメチル水銀に汚染された魚介類を母が食べ、胎内で罹患した体験から「女の人と子どもを守ってください。一緒にしていきましょう」と締めくくった。」


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by kibouh1 | 2017-10-03 08:49 | 水俣 | Comments(0)


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「すべての人の社会 2017.2月号」(日本障害者協議会)で胎児性患者の働く場からの報告です。60年余の歴史をどう見ていくのか。詳しく知りたいと思いました。

「連載差別と抑庄の歴史 高度経済成長の傍らで

公害の原点といわれる水俣病。それまでの常識を覆し胎児性患者として生まれた方々が、仕事の場「ほっとはうす」を作り、生き抜 いている姿勢を、施設長として寄り添い、支援する加藤さんに伝えていただきました。

今、水俣から伝えたいことー水俣病胎児・小児性患者等の挑戦 ~ほっとはうすの実践に学ぶ~

加藤タケ子社会福祉法人さかえの杜施設長

■水俣病事件は過去ではない、現在進行中

水俣病事件は公式確認から60年。半世紀を経ても被 害の全容はおろか数多くの課題を抱えた現在進行中の 公害事件です。 1995年と2011年の2回の『政治解決』で、およそ 7万人を超える人が被害を訴え、医療費救済が実現されました。しかし、被害者が納得できる償いには至らず被害の全容解明など未解決な問題が横たわる厳しい現状。胎児・小児性世代のチッソ・国の責任を問う裁判も続行中で、医療・生活問題をはじめ、さらに高齢 化の極みにある水俣病患者の状況はより深刻です。

■チッソ工場は工場排水が原因だと知っていた

「水俣病」は195651日、「原因不明の奇病が水俣市(熊本県)の漁村地区に発生している」と、チッソ水俣工場付属病院の細川医師が水俣保健所に報告し公式確認されます。それから3年後、チッソは細川医師等の工場内の猫実験の結果から、工場からの排水に原因があると知り通産省にも報告されました。しかし、アセトアルデヒドの製造工程で使用された水銀な ど重金属を含む排水はその後も規制されず、1968年の公害認定までタレ流され不知火海の魚介類を大規模に 汚染、食した沿岸住民達が次々に発症しました。(略)

■地域社会とのつながりの中で生きたい

胎児性小児性患者にとって「ほっとはうす」の前史 は1970年代の「仕事ば、よこせ」と動き出した頃、青春を燃焼させた暑い夏の大イベント「石川さゆり (歌謡)ショー」 (1978)の企てと実行。試練鍛錬の 場として1991年から活動したカシオペアの会は、水俣 病を教訓としたマチづくり、障がいの疾病原因や様々 な違いを超えて地域で生きることを目指すゆるやかなつながりを大事にしました。その確実な一歩が「ほっ とはうす」開設(19981129)でした。『水俣病事 件を伝える・障がいを持つ人が働く場・どんなに重い障害を持っていても地域で生きたいj r毎日行けるJ場・ 自分を必要としてくれる場、社会とのかかわりが持てる場Jをキーワードとした、患者等の20歳代の頃からの思いの実現でした。

この場を拓くにあたり、モノは何一つなくても『あ たりまえの大人として自分らしく普通に生きていきた い』というあふれる思いと情熱だけはたっぷりありました。40歳目前のその思いに共感し寄り添う人達は、 少数でも地域を超え広がっていた頃でした。

20年を支えた真の強さ

20年かけてたどりついた仕事の場「ほっとはうす」 開設までは好余曲折あり、患者入所施設から脱出し十数年ぶりで家に帰ることを選択したり、仕事らしき (紙漉きや生活学校)試みへの挑戦、未認定患者の運動への支援で座り込みテントへの参加もありました。 諦めずに挑戦し続けた忍耐と根気の20年間に敬服で す。行政や加害企業が、世界的に未曾有の公害事件の最たる受難者である彼らの被害の本質に気付いていた か、いなかったかの時期、生き抜く強さを父母から授 かった彼らの真の強さが20年を支え、希望は見事に結実し未来を拓きました。 しかし、この時、その数年前より30代にしてはあま りに早い下肢や平衡感覚のバランスを保つ身体機能の低下がすでに目立つようになっており、手足の上 げ下げに痛みを伴い段差がかわせず階段の昇降に難儀していました。生まれてからず、っと「自分流身のこ なし術」で、身の回りのことは自分でやってきた人達です。その自分のペースが痛みを伴い緩慢に落ちてい く、こんな恐怖の中で漸くたどりついた仕事の場のス タートでした。(以下略)」

 すでに60年を経て、これからはどうなるのでしょうか。

「親、家族達は、生命の行く末を誰もが心配しました。 しかし、20代の成人を喜び、30代、40代と仕事の場を 求めて生き抜き50代を過ぎ、患者達は還暦の60歳を迎 えました。まさに、水俣病公式確認60年はこの歳月に重なり、生命をベースに、ここまで生かされ生き抜いてきたのです。『生き抜く』患者達の存在なしでは考えられないこれからであり、生命の重なり合いのこれか らの10年も始まっています。」


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by kibouh1 | 2017-02-28 06:33 | 水俣 | Comments(0)

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こんなことがあるとは・・・。

「終戦後に入隊 人目忍び帰宅  83

40歳を過ぎた父に召集令状が届いたのは、昭和207月半ば。父は生まれついての斜視のせいか、兵役を免れ、村では残り少ない貴重な男の働き手であった。 いろいろ役職を担い、食糧供出をはじめ、配給物資の分配、松根油生産など勤労奉仕の割り振りに日夜、奔走していた。 815日、戦争は終わった。入営は18日である。終戦直後の混乱の中、役所の対応は「行くだけ行ってみてくれ」と曖昧。17日、家には出征準備を手伝う村の老人たちが集まった。敗戦の喪失感が漂う中、まだ出征は祝福されることだったのだろうか。

「祝入営」の額に国旗を交差して門口に立てた。村人総出で祝宴の準備である。一方、隣の集落で宿営工事中の小部隊は、隊列で本隊に引き揚げる。何人かの兵はけげんな面持ちで「召集ですか」と尋ねる。今思うと、珍妙な光景o戦争は終わった、負けたというのに、それでも日の丸の小旗に見送られて、父は列車の中ヘ。旧陸軍最後の召集風景であったろう。父は入隊することなく、翌日、人目を忍ぶように帰宅した。」(2016923日西日本新聞)

水俣病公式確認からでも半世紀以上なのに「指定地域」外の人が多くいるという。

「(声)水俣病、救済を終わらせるな  54歳 20161013日朝日新聞

 救済対象地域から外れた場所で暮らした水俣病被害者の検診記録を分析した「水俣病 救済地域外も症状 1万人検診記録」(3日朝刊)や「水俣病 1500人に症状」(10日朝刊)を読みました。国が定めた救済対象地域や対象年齢が実態に合わず、そのために今も大勢の被害者が取り残されている可能性を指摘しています。

 ところが環境省の特殊疾病対策室長は「猶予を設けて周知を図った。救済を望んで取り残された人はいないと考えている」と話しているといい、国の救済に問題はないとしています。

 当時の人々の食生活の実態を見ると、救済対象地域を一律に線引きしたのは非科学的です。立場の弱い被害者に救済申請期限を設けることも信義に反します。被害に遭っても国の誤った線引きや方策によって救済を求められない国民が多数いる公算が大きいのです。なぜ徹底した調査もせず、切り捨てるのか、理解に苦しみます。

 水俣病の被害者救済は原因企業はもちろん、行政にとっても失敗の積み重ねの歴史です。それなのにまた失敗を繰り返すのでしょうか。水俣病の症状が認められる人が一人でもいる限り、救済を終わらせてはなりません。」

原爆の被災者も円で描いた以外の人は除外されていました。原発でも円形で示されたりしましたが、自然のモノを円形で範囲を決める無謀さがありますね。


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by kibouh1 | 2016-10-17 05:12 | 水俣 | Comments(0)

時間だけが過ぎていく

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水俣病の語り部といわれる金子スミ子さんが亡くなれたと報道されました。享年84歳、息子の胎児性患者の方が60歳だという。次の記事では、チッソの労働組合の第1組合委員長だった岡本氏の足跡を紹介しています。岡本氏も81歳だという。

「岡本達明の民衆史 原点 社会の基底を知りたい」(201647日西日本新聞)

「水俣病は51日、公式確認から60年を迎える。この節目を前に、原因企業チッソ水俣工場の労働組合「第1組合」委員長だった岡本達明(81)は昨年、全63700ページに及ぶ「水俣病の民衆史」(日本評論社)を刊行した。1971年から500人以上に及ぶ不知火海沿岸住民の聞き取りを続けてきた岡本。未曾有の公害が襲い、民衆に何が起きたのか。チッソ、行政と被害者の闘争を縦軸、近代化していく村の日常が横軸に、不条理を背負わされてきた民衆を記録した巨編を岡本の歩みとともに読む。

谷川雁や「サークル村」については、評価は様々です。歴史的に見れば、運動の是非に消耗した感があるのではないかというのが、素人の感想です。時間的に既に60年も経て救済されないのはなぜか。足尾鉱毒事件のことをとりあげた本も読みましたが、国家が仕掛けるものに対してなぜ無力なのか、そこのところが分からないままです。

「学生運動全盛期もノンポリで過ごしたのは、「権威」に、 対抗するより、「社会の基底 がどういうものか知りたい。大事なのは下の実態」という思いがあったからだ。工場労働者や農漁業に従事する民衆の語りから、社会構造やその変遷を書き記すことを一生の仕事にしようと定めた。

入社後、初任地は水俣。岡本はある日、詩人で思想家の 谷川雁と路上で偶然出会う。 連れて行かれた商店街にある谷川の家には、作家の石牟礼道子ら文化人や工場の労働組合員らが集っていた。谷川から「君は本を頭で読むのか、体で読むのか」と問われ、「おもしろい。こんな人が世の中にいるのか」と心を躍らせた。労働運動の話など一切しない。「彼らと交わり、初めて物事をどうとらえるか教わった」と言う。当時、「奇病」と恐れられた水俣病。ここに暮らす漁民たちの中には工場労働者もいた。岡本がそこに踏み込むの

は、もう少し後のことだ。工場労働者と谷川ら「おもしろい人」たちに囲まれ、民衆への興味は揺るぎないものになる。」


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by kibouh1 | 2016-04-14 05:14 | 水俣 | Comments(0)

お金ではないもの

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「毛穴の小器官が消失=高齢化で脱毛、仕組み解明―必須物質も発見・東京医科歯科大

時事通信 25

 年を取ると毛が薄くなり抜けてしまうのは、毛を生み出す幹細胞が老化し、毛穴の小器官「毛包(もうほう)」が次第に縮小して消えてしまうためだと分かった。東京医科歯科大や米ニューヨーク大などの研究チームがマウスの背中の毛と高齢女性の毛髪で解明し、5日付の米科学誌サイエンスに発表した。

 幹細胞の老化を防ぐには、細胞と基底膜を結び付ける「17型コラーゲン」が必須であることも発見。東京医科歯科大の西村栄美教授らは17型コラーゲンの分解を防ぐ物質を探し始めており、西村教授は「5年から10年の間に薬ができれば」と話している。

 毛包の縮小は男性ホルモンによる男性型脱毛症に特徴的な現象と考えられていたが、高齢化でも進むことが確認された。早期に17型コラーゲンの分解を防げば、毛を長期間、維持できるという。(以下略)

脱毛も深刻な悩みになることがあるのでしょうか。水俣病を思う時に、技術の進歩が人間を傷めることを信じない人の多いこと気になります。人生が1回限りなのに、理不尽な仕打ちをする。仕掛けた人たちが威張っている社会。

「宝子よ 胎児性患者の母たち

わがこつだから、闘えた

「お利口だった真由美の視界が次第に狭くなり、言葉も出なくなっていった。その姿を見るのが、どれだけつらかったことか」 9日、熊本県水俣市。全国から水俣病研究者らが集う会合で、認定患者の坂本フジエさん(90)は、195 8年にわずか4歳で命を奪 われた長女の思い出を語り、声を詰まらせた。一家は、患者が多発した、漁村地域の水俣市湯堂に当時から住む。真由美さんが3歳になる前、次女しのぶさんが生まれた。「あかちゃんはどこにおっとね」。そのころから視野が狭まり、 区切るような話し方になった。よろよろと歩き、しのぶさんを踏みつけそうになることもあった。フジエさんは「生きていれば病名が分かって治療もでくるはず」と信じたが、発症から1年半で亡くなっ 。死亡診断書には「肺炎」とあった。土葬の際、上質な絹の赤い着物を着せた。数年後に遺骨を納骨堂に入れるため墓を掘ると、骨は残っていなかった。鮮やかな赤い着物だけが自に焼き付いた。

しのぶさんもいつまでも首が据わらず、手足の硬直が進み、歩き始めたのは小学校入学前。62年に6歳で 胎児性患者と認定された。69年、原因企業チッソを相手取り、損害賠償を求め初の裁判となった熊本地裁への水俣病第1次訴訟に、 フジエさんと12歳のしのぶさんは参加した。フジエさんは原告団の先頭に立ち、出張尋問で水俣を訪れた裁判長に「人の命はお金で代えられるもんじゃなか」と訴えた。(以下略)」(2016131日西日本新聞)


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by kibouh1 | 2016-02-18 05:39 | 水俣 | Comments(0)