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気ままなつぶやきです


by kibouh1

カテゴリ:歴史( 31 )

川越人足は重労働

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肩車で人を運ぶことの大変さが次のように述べられています。

「幼い子にせがまれて肩車をしたことのある人なら、覚えがあるだろう。肩に背負えるのはせいぜい幼稚園どまり。小学生ともなると、とてもかつげない。ところが川越人足は大の大人を肩車し、ときには脇にとどく急流を渡っていった。川原は石、砂、岩角だらけ、そこにコケ、水くさがついてすべりやすい。「権三わらじ」という特別のわらじをつけていたというが、それにしても人間を肩にのせて大河を踏みこえるなどのこと、が、どうしてできたのだろう?復元された番宿に川越人足を模した人形が据えてある。全身赤銅色で、肩幅ひろく、足腰が太い。人足資格は一五歳から五O歳まで。一二、三歳から修業に入り、一五歳で「水入(みずいり)」といって業務見習になる。そこからより抜きが厳しい審査の末、「本川越」(ほんかわごし)そして川庄屋に採用された。」(「『東海道ふたり旅』池内 紀」)

なんと想像力が欠けていたのかと思ったのは、川底が石や砂や水草などがあるということです。そんなところをこけることもなく渡り切るのはなんという高度な技術なのでしょうか。定年は50歳というのも分かります。


by kibouh1 | 2019-05-19 06:20 | 歴史 | Comments(0)

江戸時代の女性教師

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「オピニオン デスク日記

 十数年前、古書店で太平洋戦争中に発行された各種の新聞をまとめて買った。その中に「少国民新聞」があった。戦争中、小学校は国民学校と改称され、児童は「少国民」と呼ばれた。この新聞の前身は全国紙が発行していた小学生新聞だが、紙名を変え、内容も戦時色を強めていった。

 新聞は戦争を子どもたちにどう伝えたのか。「もの知りこどもタイムズ」面を担当し、この新聞を50部ほど集めて読んだ。日米開戦直後は勇ましい記事が多いが、戦局が悪化すると「空襲に備えて疎開」「兵糧攻めに勝つ耕作」などの記事が増えていく。

 子どもたちが小遣いをためて海軍に寄付したという記事も胸に迫る。戦地の父親から届いた手紙を紙面で紹介した少年もいた。「お父さんは無事に帰ってきただろうか」と気になった。戦災は子どもにも容赦なく降りかかる。この新聞を使った「こども記者」向けの勉強会を企画している。 (大田精一郎)=2019/05/05付 西日本新聞朝刊=」

戦時中も女性教師が多かったのではないかと思うが、江戸時代も多かったという話には驚きました。なぜなら、私たちが学んだ江戸時代は厳格な身分制の中での支配に苦しんだというもの。ところが、最近の研究では、きわめてしたたかな庶民の生き方があったことが知られています。女性教師が35.5%だという。

「ところが、明治以後、これが変わる。黒板が登場し、先生が教えるものを子供がじっと座って暗記する座学、つまりは、「目と耳の学び」になった。それが近代の学校というもので、国家が国民に画一的な知識を一斉注入するのには、これが効率がよかった。しかし、自分で勝手に何かやる創造的な人間や面白い発想は育ちにくい。 江戸の寺子屋のなかの子供はまったくマイペースであり、さぼる子、暴れる子もいて、 無法地帯であったが、体を動かしながら学ぶ子供の顔は生き生きしていた。あまり知られていないことだが、江戸時代には、女の先生が結構いた。教育史の石川松太郎氏によれば、大都市の寺子屋では〈女師匠の数が多かった〉。実際、江戸における「女師匠の比率」は三五・五%であったという。

ちなみに現在、女性教員の比率は高校で二八%、中学校で四一%、小学校で六三%である(「学校基本調査」二OO四年度)。江戸の寺子屋のほうが、現代の高校よりも、女性教員が多かったというのは驚きである。」(「『江戸の備忘録』磯田道史」)


by kibouh1 | 2019-05-13 06:30 | 歴史 | Comments(0)

拾う神も

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今でも二宮金次郎の石像が残っている学校があるのだろうか。正直何をした人なのかよくは知らないけどとにかく立派な人だと教えられた。

 だが、初婚は嫁さんから離婚を切り出されたという。

「結婚時点の金次郎は三町八反の地主であったから、もっと楽な生活を想像していた。 だが、嫁いでみると、金次郎は人に恵んでばかりいる変わり者にみえ、苦労させられた。離婚を申し出たきのに金次郎はいろいろと諭したが、きのの離婚の決心は固かった。こうして金次郎の最初の結婚は、悲しい結末をむかえ、三十三歳の金次郎は人生のどん底におちた。だが、捨てる神あれば拾う神あり、そんな金次郎の前にすてきな女性が現れる。誠心誠意働く金次郎の姿を見ていた服部家の女中の一人が、「金次郎さんの嫁になってもいい」と申し出たのである。名前は「なみ」。まだ十六歳の少女であった。働き者で学問好き。粗衣粗食にも不平を言わない。なみは幼いが、金次郎が何をしたいのかわかっていた。「金次郎さんは国を治す医者、だ」。そう言ってくれる人がいると、なみは心底うれしいと思うような女だった。結局、金次郎はこの女性と添い遂げた。」(「『江戸の備忘録』磯田道史」)

こういう歴史の裏側を知るのも楽しみです。


by kibouh1 | 2019-05-11 06:56 | 歴史 | Comments(0)

綱吉の評価は

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報道によれば、天文学会が軍事利用には協力しないと決めたが、研究費が減らされていて本音は苦しいという。研究費の削減は許せない。軍備拡張費用に比べれば安いものではないか。

生類憐みの令で有名な綱吉の評価がテレビなどでは低いのはなぜか。

「文治主義とその結果

家綱をうけた五代綱吉の時代になると、幕藩体制の基礎も固まった。綱吉は、天和三年(

六八三)、代初めの武家諸法度を発し、第一条でそれまで「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」とされていたものを、「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」に改めている。綱吉は、武功によって上昇を図ろうとする戦国時代以来の武士の論理と価値観を、社会全体から追放しようとしていた。それで出されたのが、犬、だけでなく生あるもの全般の殺生を禁じた

生類憐みの令、それと裏表にある死を忌み嫌い、血のケガレを避ける服忌令(一六八四年発令、これも何度も追加補充令が出た)である。後者は戦場において討ち取った敵将の首を前に論功行賞をした武家の社会には、本来存在しなかったものだった。」(『武士の日本史』高橋昌明)

服忌令などもっと知りたいと思う。歴史の評価は多様ではあるが、悪意を綱吉には感じる。どういう経過でなったのだろうか。


by kibouh1 | 2019-04-01 08:24 | 歴史 | Comments(0)

鉄砲伝来の今は

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ジャカルタの地下鉄の運行のソフトでは、日本が貢献しているというニュースがありました。新しい地下鉄工事の受注も視野に入れているのでしょうが。

鉄砲伝来は種子島と習いましたが、今はどうなっているのでしょうか。

「天文二O年前後、泉州堺(現大阪府堺市)から鉄砲を入手し、南九州にも鉄砲が伝わった形跡が あるので、種子島だけを鉄砲伝来の窓口とするには無理がある。西洋人が日本に伝えたとされるが、実際は当時東アジアの海域に活動した中国人倭冠の役割が大きいようだ。鉄砲が日本各地に広まったのは、それを愛好した第一二代将軍足利義晴が贈答品として大名らに賜与したのと、職業的な砲術師が各地を渡り歩き、鉄砲の運用技術を教授して廻ったからである。鉄砲伝来の結果、ただちに戦闘技術と城郭の構造が一変したという軍事一辺倒の説があるけれど、初期の砲術秘伝書のなかには鳥獣への射法の記載がすこぶる多い。これは伝来後、鉄砲がまず狩道具として広まったことを示している。」(『武士の日本史』)

 軍事面での変化が強調されるが、鳥獣の捕獲に利用されていたというが・・・。


by kibouh1 | 2019-03-25 06:02 | 歴史 | Comments(0)

「諸説あり」


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何かのニュースで、イギリスの航空会社のCAさんにすっぴんでも構わないという。時代は変わるが、なかなか変わらないものもあります。

「オピニオン  風向計 「諸説あり」を楽しむ 文化部次長 古賀 英毅

 「ボーっと生きてんじゃねーよ!」のセリフで人気のNHK番組「チコちゃんに叱られる!」。チコちゃんの質問に対する回答VTRの最後に時折現れるひと言がある。「諸説あります」。この「諸説」、歴史や考古学の取材でも直面することがよくある。

(略)

 一方、大宰府史跡(福岡県太宰府市)の発掘調査が始まって50年の節目をとらえ、文化面で「大宰府の宿題」を書いた際は、諸説があることで記事が成り立った。こちらは年代ではなく、方形に区画した街を都と同等に「条坊」と呼べるのか、関連施設の目的や建設手法…。研究者の意見が一致しない点や誰も分からないままでいる事柄が多いことを逆手に取り、「遠(とお)の朝廷(みかど)」とも称された古代大宰府の実相解明が、今なお途上であることを示そうと考えた。

 最新の論文集を読み、専門家たちに取材した。10人に聞くと10通り、とまでは言わないが、それぞれ違った見解が出てくる。若手でも大家でも学究者としての自負があり、簡単に一致するはずもない。(以下略)=2019/03/05付 西日本新聞朝刊=」

「大宰府の宿題」を興味深く読みました。発掘開始50年を記念してですが、読みごたえがありました。文字通り「諸説あり」でしたが。最近も水城跡の発掘説明会の案内記事がありましたが、体調悪く行きそびれました。できれば調査結果の記事も欲しい。


by kibouh1 | 2019-03-15 06:31 | 歴史 | Comments(0)

女性首長

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「魏志倭人伝」の分析というか、解釈は果てしなく続くようですが・・・。現代の中国では、テレビニュースによれば、中国人旅行客が日本で体験した自慢話の大会を開いたという。日本でも、海外の自慢話をして理解を広げたらと思うが、どうでしょうか。

 卑弥呼と女性首長という観点からの意見です。

「弥生から古墳時代前期を通じて、女性首長が広く存在していたこと、彼女たちは、もっぱら祭祀を担う巫女的首長とか男性首長の補佐だったというわけではなく、生産や流通にかかわる権能を持ち、政治的同盟を結ぶ主体だったということは、現在では、かなり古代史学界の共通認識となってきた。問題は、女性首長と軍事との関わりをどうみるか、という点である。(略)

考古資料を総合していえることは、兵士は一般的には男性、だったらしいが女性もいた、甲冑を身につけての陣頭指揮は男性首長が担っていたたらしいが武器を副葬する女性首長も

存在した、ということだろう。そのことと、伝承の中にうかがえる戦う女性首長像とを全体としてどう考えたらよいのだろう。」(『つくられた卑弥呼』)


by kibouh1 | 2019-03-06 05:06 | 歴史 | Comments(0)

大宰府羅城説

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前畑遺跡の説明会に参加した時の基肄城方面の眺望の広がりが印象的でした。

「聞き書きシリーズ 夢掘りびと 福岡大学名誉教授 小田富士雄さか

前畑土塁発見に驚く

大宰府史跡闘連で近年のビッグニュースは2016年秋、福岡県筑紫野市の前畑遺跡で「羅城」の可能性のある土塁が発見されたことです。羅城とは、古代中国など東アジアで見られた「都城を取り囲む城壁(土塁や石塁)」の意で、日本での確認例はありません。私の恩師、鏡山猛九州大名誉教授は1968(昭和43)年の著書で大野城や水城など大宰府外郭ラインを「朝鮮半島百済最後の都・扶余の羅城と似た構造』とされます。91年には、阿部一義平国立歴史民俗博物館名誉教授(故人)が「大宰府羅城説」を提起しました。大野城と同じ665年築とされる基肄城(佐賀県基山町)の南東で見つかった関屋土塁ととうれぎ土塁は大野城水城基肄城に連なるとみて羅城推定ライ ンを想定したのです。私は否定的でした。政庁の北や南、西は別として、豊後道が通る東に壁を造る必要はなかろうと。東は谷間をふさ

ぐ小水城のような土塁が7カ所はあるのに、1カ所も残っていないですしね。ところが、筑紫野市教育委員会が土地区画整理事業に伴う前畑の調査で丘陵表土を重機で剥ぐ際に固い地盤に当たったことから、私も驚く大発見になりました。見つかった土塁は延長約390メートル、上下2層で上層は版築(砂質土と粘土を交互に積み重ねる)と判明 します。7世紀後半築造の大野城や水城と同じです。(以下略)201924日西日本新聞」

前畑遺跡は宅地造成中でしたので保存が問題になっていましたが、話し合いで一部の保存で合意されたという。どういう形になるのか楽しみです。


by kibouh1 | 2019-02-13 06:00 | 歴史 | Comments(0)

三池藩の幕末は

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筑後3藩でも 勤王の志士や新撰組などに参加した人たちがいます。三池藩が新政府軍についたことは知りませんでした。興味深く読みました。

「幕末維新 翻弄される筑後3藩大名家

三池藩 主戦派から新政府へ

柳河藩 関東出兵に悩み書簡

久留米藩 血の粛正「殉難十勇士」

幕末維新史で一般に取り上げられやすいのは、九州の諸藩では、まず薩摩、佐賀である。一方、福岡は勤皇派の大量処分で知られ、小倉は領地が戦場となり城を焼いた。外様3藩があった現在の福岡県筑後地方はどうか。さらに影が薄い。 その筑後地方の各市で現在、幕末維新展が聞かれている。各展示からは、大河ドラマなどには出てこない 時代に翻弄された大名家の姿が見えてくる。

3藩のうち、政治の中枢にいたのが三池藩。現在の大牟田市の南半分と下手渡 (福島県伊達市)に領地を 所有していた。藩主の立花種恭は文久3(1863)年に若年寄として幕府の外交や財政を支え、王政復古後の慶応4(1868)110日、老中格兼会計総裁になる。大牟田市の三池カルタ・歴史資料館に展示中の「老中日記」には若年寄に就任した文矢39

から明治2(1869)1月までの出来事が記され、三池藩の動向だけなく、幕府側から見た幕末史の貴重な資料となっている。同館の梶原伸介館長によると、種恭は主戦論者だったが、幕府の中枢にいてさまざまな情報が集まるため、情勢判断に慎重になっていく。慶応421日 に幕閣を辞した後も家臣を上京させて情報収集に務め、翌月佐幕と新政府の間で揺れる領内沈静化のために下手渡に行った後、京都に戻り新政府側につく方針を固める。梶原さんは「日記から種恭が独自に判断した」とみる。三池藩が新政府側につくと、下手渡の陣

屋は同年8月に奥羽列藩同盟の攻撃を受け焼け落ちた。(以下略)20181120日西日本新聞」


by kibouh1 | 2018-12-26 06:09 | 歴史 | Comments(0)

力の150年では

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有史以来明治まで日本は戦争とはほとんど関係しないできたという。白村江の戦い、秀吉の朝鮮半島への進出などしかないという。明治150年は日清・日露・日中・日米などが150年の間に繰り返されています。

「明治150

政府の自賛一辺倒懸念

日本女子大教授 成田龍一氏

「明治150年」を記念する政府の式典で安倍晋三首相が式辞を述べた。その内容は、西欧に比べ旧作に近代化を成し遂げたことを日本の特徴に挙げた上で、明治時代の豊かな人材によって土台がつくられたとした。一方で、少子高齢化、グローバリゼーションが急速に進む今日を危機的状況にあるとし、再びの結集を呼び掛けている。この国の歴史を称揚、自賛していると総括できるが、その一面性に危うさを感じる。

安倍氏は20158月に地元の山口市内で開かれた「内閣総理大臣を囲む会」で、明治50年の首相が寺内正毅、100年が佐藤栄作で共に山口県出身であることを紹介、150年を首相で迎えることに意欲を示した。翌年には内閣官房に「明治150年」関連施策推進室を設置している。今年の「年頭所感」でも「明治日本の新たな国づくりは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました」と述べている。歴代首相の中でも明治150年、維新への思い入れは強い。(以下略)」(2018114日西日本新聞)


by kibouh1 | 2018-12-18 06:03 | 歴史 | Comments(0)