気ままなつぶやきです


by kibouh1

カテゴリ:歴史( 26 )

「諸説あり」


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何かのニュースで、イギリスの航空会社のCAさんにすっぴんでも構わないという。時代は変わるが、なかなか変わらないものもあります。

「オピニオン  風向計 「諸説あり」を楽しむ 文化部次長 古賀 英毅

 「ボーっと生きてんじゃねーよ!」のセリフで人気のNHK番組「チコちゃんに叱られる!」。チコちゃんの質問に対する回答VTRの最後に時折現れるひと言がある。「諸説あります」。この「諸説」、歴史や考古学の取材でも直面することがよくある。

(略)

 一方、大宰府史跡(福岡県太宰府市)の発掘調査が始まって50年の節目をとらえ、文化面で「大宰府の宿題」を書いた際は、諸説があることで記事が成り立った。こちらは年代ではなく、方形に区画した街を都と同等に「条坊」と呼べるのか、関連施設の目的や建設手法…。研究者の意見が一致しない点や誰も分からないままでいる事柄が多いことを逆手に取り、「遠(とお)の朝廷(みかど)」とも称された古代大宰府の実相解明が、今なお途上であることを示そうと考えた。

 最新の論文集を読み、専門家たちに取材した。10人に聞くと10通り、とまでは言わないが、それぞれ違った見解が出てくる。若手でも大家でも学究者としての自負があり、簡単に一致するはずもない。(以下略)=2019/03/05付 西日本新聞朝刊=」

「大宰府の宿題」を興味深く読みました。発掘開始50年を記念してですが、読みごたえがありました。文字通り「諸説あり」でしたが。最近も水城跡の発掘説明会の案内記事がありましたが、体調悪く行きそびれました。できれば調査結果の記事も欲しい。


by kibouh1 | 2019-03-15 06:31 | 歴史 | Comments(0)

女性首長

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「魏志倭人伝」の分析というか、解釈は果てしなく続くようですが・・・。現代の中国では、テレビニュースによれば、中国人旅行客が日本で体験した自慢話の大会を開いたという。日本でも、海外の自慢話をして理解を広げたらと思うが、どうでしょうか。

 卑弥呼と女性首長という観点からの意見です。

「弥生から古墳時代前期を通じて、女性首長が広く存在していたこと、彼女たちは、もっぱら祭祀を担う巫女的首長とか男性首長の補佐だったというわけではなく、生産や流通にかかわる権能を持ち、政治的同盟を結ぶ主体だったということは、現在では、かなり古代史学界の共通認識となってきた。問題は、女性首長と軍事との関わりをどうみるか、という点である。(略)

考古資料を総合していえることは、兵士は一般的には男性、だったらしいが女性もいた、甲冑を身につけての陣頭指揮は男性首長が担っていたたらしいが武器を副葬する女性首長も

存在した、ということだろう。そのことと、伝承の中にうかがえる戦う女性首長像とを全体としてどう考えたらよいのだろう。」(『つくられた卑弥呼』)


by kibouh1 | 2019-03-06 05:06 | 歴史 | Comments(0)

大宰府羅城説

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前畑遺跡の説明会に参加した時の基肄城方面の眺望の広がりが印象的でした。

「聞き書きシリーズ 夢掘りびと 福岡大学名誉教授 小田富士雄さか

前畑土塁発見に驚く

大宰府史跡闘連で近年のビッグニュースは2016年秋、福岡県筑紫野市の前畑遺跡で「羅城」の可能性のある土塁が発見されたことです。羅城とは、古代中国など東アジアで見られた「都城を取り囲む城壁(土塁や石塁)」の意で、日本での確認例はありません。私の恩師、鏡山猛九州大名誉教授は1968(昭和43)年の著書で大野城や水城など大宰府外郭ラインを「朝鮮半島百済最後の都・扶余の羅城と似た構造』とされます。91年には、阿部一義平国立歴史民俗博物館名誉教授(故人)が「大宰府羅城説」を提起しました。大野城と同じ665年築とされる基肄城(佐賀県基山町)の南東で見つかった関屋土塁ととうれぎ土塁は大野城水城基肄城に連なるとみて羅城推定ライ ンを想定したのです。私は否定的でした。政庁の北や南、西は別として、豊後道が通る東に壁を造る必要はなかろうと。東は谷間をふさ

ぐ小水城のような土塁が7カ所はあるのに、1カ所も残っていないですしね。ところが、筑紫野市教育委員会が土地区画整理事業に伴う前畑の調査で丘陵表土を重機で剥ぐ際に固い地盤に当たったことから、私も驚く大発見になりました。見つかった土塁は延長約390メートル、上下2層で上層は版築(砂質土と粘土を交互に積み重ねる)と判明 します。7世紀後半築造の大野城や水城と同じです。(以下略)201924日西日本新聞」

前畑遺跡は宅地造成中でしたので保存が問題になっていましたが、話し合いで一部の保存で合意されたという。どういう形になるのか楽しみです。


by kibouh1 | 2019-02-13 06:00 | 歴史 | Comments(0)

三池藩の幕末は

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筑後3藩でも 勤王の志士や新撰組などに参加した人たちがいます。三池藩が新政府軍についたことは知りませんでした。興味深く読みました。

「幕末維新 翻弄される筑後3藩大名家

三池藩 主戦派から新政府へ

柳河藩 関東出兵に悩み書簡

久留米藩 血の粛正「殉難十勇士」

幕末維新史で一般に取り上げられやすいのは、九州の諸藩では、まず薩摩、佐賀である。一方、福岡は勤皇派の大量処分で知られ、小倉は領地が戦場となり城を焼いた。外様3藩があった現在の福岡県筑後地方はどうか。さらに影が薄い。 その筑後地方の各市で現在、幕末維新展が聞かれている。各展示からは、大河ドラマなどには出てこない 時代に翻弄された大名家の姿が見えてくる。

3藩のうち、政治の中枢にいたのが三池藩。現在の大牟田市の南半分と下手渡 (福島県伊達市)に領地を 所有していた。藩主の立花種恭は文久3(1863)年に若年寄として幕府の外交や財政を支え、王政復古後の慶応4(1868)110日、老中格兼会計総裁になる。大牟田市の三池カルタ・歴史資料館に展示中の「老中日記」には若年寄に就任した文矢39

から明治2(1869)1月までの出来事が記され、三池藩の動向だけなく、幕府側から見た幕末史の貴重な資料となっている。同館の梶原伸介館長によると、種恭は主戦論者だったが、幕府の中枢にいてさまざまな情報が集まるため、情勢判断に慎重になっていく。慶応421日 に幕閣を辞した後も家臣を上京させて情報収集に務め、翌月佐幕と新政府の間で揺れる領内沈静化のために下手渡に行った後、京都に戻り新政府側につく方針を固める。梶原さんは「日記から種恭が独自に判断した」とみる。三池藩が新政府側につくと、下手渡の陣

屋は同年8月に奥羽列藩同盟の攻撃を受け焼け落ちた。(以下略)20181120日西日本新聞」


by kibouh1 | 2018-12-26 06:09 | 歴史 | Comments(0)

力の150年では

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有史以来明治まで日本は戦争とはほとんど関係しないできたという。白村江の戦い、秀吉の朝鮮半島への進出などしかないという。明治150年は日清・日露・日中・日米などが150年の間に繰り返されています。

「明治150

政府の自賛一辺倒懸念

日本女子大教授 成田龍一氏

「明治150年」を記念する政府の式典で安倍晋三首相が式辞を述べた。その内容は、西欧に比べ旧作に近代化を成し遂げたことを日本の特徴に挙げた上で、明治時代の豊かな人材によって土台がつくられたとした。一方で、少子高齢化、グローバリゼーションが急速に進む今日を危機的状況にあるとし、再びの結集を呼び掛けている。この国の歴史を称揚、自賛していると総括できるが、その一面性に危うさを感じる。

安倍氏は20158月に地元の山口市内で開かれた「内閣総理大臣を囲む会」で、明治50年の首相が寺内正毅、100年が佐藤栄作で共に山口県出身であることを紹介、150年を首相で迎えることに意欲を示した。翌年には内閣官房に「明治150年」関連施策推進室を設置している。今年の「年頭所感」でも「明治日本の新たな国づくりは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました」と述べている。歴代首相の中でも明治150年、維新への思い入れは強い。(以下略)」(2018114日西日本新聞)


by kibouh1 | 2018-12-18 06:03 | 歴史 | Comments(0)

大宰府史跡の全貌は

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発掘は続いていますがまだ多くのことが未解明です。

「「大宰府の条坊」新説紹介 九歴で史跡発掘50年特別展 [福岡県]

 大宰府史跡発掘50年を記念し、大宰府の碁盤の目状の区画「条坊」の新説を紹介した特別展「大宰府への道-古代都市と交通」が、九州歴史資料館(九歴、小郡市)で開催されている。太宰府市教育委員会の井上信正主任主査が、10年前に提唱した説を基に復元したパネルを展示している。6月17日まで。

 条坊を巡っては、九歴初代館長を務めた故鏡山猛九州大教授が1968年の発掘開始前に著した「大宰府都城の研究」の中で「大宰府は政庁南北中軸線を境に左右両郭があり、南北22条、東西各12坊の条坊制(条坊1区画は109メートル四方)が施行されていた」と説明しており、これが発掘調査の基準とされてきた。

 ところが発掘が進むにつれ、想定していた条坊と実際の遺構が合わないことが判明。井上主査は、大宰府発掘40年シンポジウムで「大宰府条坊は南北22条、左郭12坊、右郭8坊で条坊1区画は約90メートル四方」とする新説を打ち出した。(以下略)=2018/05/03付 西日本新聞朝刊=」

大宰府政庁跡の西側の蔵司地区もまだなんの施設か分かっていません。西鉄二日市駅近くの客館跡も鴻臚館との役割分担を含めて明らかになっていません。専門家でない歴史好きにとっては今後が楽しみではありますが。


by kibouh1 | 2018-05-11 05:21 | 歴史 | Comments(0)

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縄文のことが語られるようになってきました。新しい発掘などがあると思いますが、次のような指摘があります。

「縄文ルネサンス② 古谷嘉章

岡本太郎という先駆者

縄文VS弥生 提示された対置構図

近年になって縄文ルネサンスが到来するまで、縄文 文化は博物館の考古学展示室や歴史教科書の最初の数ページの中にひっそりと蟄居していたのかというと、そうとも言い切れない。敗戦から復興しつつあった1 950年代に、前衛芸術家プラス総合文化ブロデュ一サーともいうべき岡本太郎によって、縄文土器が荒々しく現代社会の只中へと引きずり出されたことがある。 1951年の暮れに東京国立博物館で展示されていた縄文土器に遭遇して、「な んだこれは!」と叫んだ岡本の主張を一文に凝縮すれば、いままで日本の伝統だと思わされてきた稲作農民の弱々しい弥生文化に代えて、狩猟採集を生業とした縄文人の荒々しく逞しい根源的な美を現代社会に取り戻し、それを日本固有の伝統として世界に推し出していかなければならない、というものである。この宣言に対する考古学界や美術工学界の反応はあまり好意的なものではなかったようだ,が、「縄文VS弥生」という構図は、それ以降、さまざまな領域で使われるようにとなる。

例えば建築界では、西洋近代建築が席巻するなかで、じつは桂離宮に代表される伝統的な美こそがモダンなのだとする言説が長く支配的だった。ところが1950年代になると、そうした洗練された建築美を「弥生」と名付け、それとは異質な「もうひとつの伝統」 としての縄文に与する発言が登場してきた。(略)

「日本の誇る伝統としての縄文文化」という言説は、基本的に戦後のごく新しい発明なのである。岡本太郎はその後、大阪万博のシンボル『太陽塔』を作り、テレビで目を剥いて「芸術は爆発だ!」と叫んでいたが、1996年に亡くなった頃には世間からほとんど忘れられた存在だった。ところが、養女となった「太郎巫女」たる岡本敏子の奮闘により、晴々しい復活を遂げる。絶版だった本が何冊も復刊され、民俗学や美術史学の論客たちが競うように「太郎論」を 出版し生誕100年の展 覧会が催されといった具合 だったが、そのハイライトが、メキシコで制作したの ち行方不明になっていた壁 画『明日の神話』の再生で、 今河川渋谷で行き交う人々 を牌脱している。(以下略)」(201837日西日本新聞)

1万年余も続いた歴史が一様なのかどうか。解明されるかもしれません。


by kibouh1 | 2018-05-06 05:58 | 歴史 | Comments(0)

縄文の再評価は

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縄文時代は1万年程度続いたという。その暮らしが徐々に明らかになっているという。

「縄文ルネサンス ① 大転換の始まりか

現代に活かす価値を探して

展覧会をきっかけに  

古谷喜章 九大教授

いま縄文ブームが来ている。いやブームというよう一過性のものではなく、「縄文ルネサンス」とさえ呼びうるような大転換の始まりかもしれない。ヨーロッパのルネサンスがそうであったように。そう言うと、たいていの人は狐につまれたような気分だろう。 ごく平均的な日本人は、 大陸から稲作がもたらされて弥生時代が始まる前に人びとは狩猟採集で暮らしていて、縄目の文様を施した土器を作っていたことくらいは授業で教わったとしても、縄文人のイメージと言えば、毛皮をまとって、石斧や弓矢を手に野獣を追いかけている「原始人」といったものなのではないか。

しかしそんなイメージが実像とかけ離れていることか、1992年から発掘が続いている青森市の三内丸山地跡など各地の発掘調査で明らかになってきた。一口に縄文時代といっても、弥生時代が始まる紀元前数百年まで約1万年間続いたのでし、一括して何か言うのは難しいのだが、定住が始まり、所によってはかなりの規模の集落が長期にわたって存続していたこと。水稲耕作はしなくても、クリ林など自然資源を管理して利用する安定した生活を営んでいたこと。独創的デザインの高品質の土器を製作する技術をもっていて、しかもその土器は世界でも最古の部類に属するものであること。精巧な耳飾りや漆塗りの櫛などの洗練された品々。意味や用途はまだ謎に包まれた2万点を超える土偶。沢山の石を周到に配列してストーンサー市 クルを築いて、そこで天体の運行に合わせた儀式などをしていた人々。つまるところ縄文人は、「原始人」というイメージとは程遠い人々であることが判ってきているのである。(以下略)」(201836日西日本新聞)

縄文時代の特徴としてイレズミがあるそうです。

「北海道では近代まで、アイヌの女性が成人儀礼として、口のまわりや前腕部に何度かに 分けてイレズミをおこなっていました(児玉ほか一九三九)。また南島でも近代まで、同様に 成人儀礼として、女性が前腕部を中心に足など体の各所に何度かに分けてイレズミをおこなっていました(小原一九八九)。」(『縄文の思想』 瀬川拓郎)

小学生時代だと思うがアイヌの人たちが来校し、踊りなど紹介した時に口の周りにイレズミをしていた人がいたと思います。記憶に間違いなければ。


by kibouh1 | 2018-05-04 06:00 | 歴史 | Comments(0)

すんなりと

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新聞の投稿欄からです。

「プロ野球年俸 あまりに高額  79

ホークスの柳田悠岐外野手が3年契約の年俸55千万円プラス出来高払いで契約更改したと報じられた。大変結構なことです。自由な資本主義社会です。他人の懐にけちをつけ

るつもりは毛頭ありません。ただあまりにも高額なので、何かすんなりとふに落ちません。「違和感」を覚えるのは私だけでしょうか。プロ野球選が活躍できる期間には限度があります。ある程度、年俸が高いのは当然でしょう。しかし、世間では正規社員で年収400万円台、非正規社員で は200万円台と聞きます。正規社員が40年働き退職金は2千万円程度です。夢を売るプロ野球、別世界のこととはいえ、世間と格差があまりにも大き過ぎでないでしょうか。観衆でもある庶民の勤労意欲をそがない程度に、バランス感覚を働かせてもらいたいものです。」(2018113日西日本新聞)

大リーグに比べたらとてもじゃないですが。それでも利益が出るという商売というのも・・・。

「桶狭間の戦い」を知らなくても、ダイナミックな動きを学べればという趣旨だと理解できます。歴史にどんな意味があったかを教えるかの論議になれば意味はあるのかも、

「歴史用語半減 学ぶ機会放棄  82

大学入試で問われる歴史用語が多過ぎる、暗記に偏っているとして高校歴史教育の重要用語を半減する案が教員の有志らから提起された。この案では「坂本龍馬」「吉田松陰」「武田信玄」「桶狭間の戦い」などが「重要ではない」と外されている。「大学入試で出題する基準」と前提はあるものの、先人の変遷、興亡の積み重ねである歴史を現代人(教師)が「不必要」と簡単に選別することは不遜と言うべきだろう。多くの歴史を学ぶ機会を失った学生が実社会に出て、坂本龍馬や吉田松陰、上杉謙信について「それ誰?習っていないから知らない」では困ることになるのではないか。確かに、働き方改革で教職員の労働時間の負担軽減は理解できる。だからといって「多すぎる用語」を口実によく知られた人物、事件まで教えないというのは歴史教育者の職務放棄と言わざるを得ない。」(同前)


by kibouh1 | 2018-03-30 06:54 | 歴史 | Comments(0)

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「加藤登紀子のひらり一言  20171126日朝日新聞

 ■Reライフ 人生充実

 考え事は、空の下を歩きながらがいちばん!

 風に吹かれると、本当の自分に出会えるから。

    ◇

 「歩くと頭が軽くなる」と言った人もいるわね。込み入ったことは気にならなくなって、大きな構想が浮かんだり、重大な決心がついたりする。」

毎日、1時間程度歩きますが、考える時間はありますが、考えがまとまらないのが難ですが。

定村比呂志という詩人を知りませんでした。

「デスク日記

 農民詩人で福岡県行橋市出身の定村比呂志(1912~68)をご存じだろうか。昭和初期の農民が搾取される姿を創作し、命の尊さを説いた。

 午前四時だと言ふのに-/砂粒のやうにガリガリな冷飯(ひやめし)に/味噌(みそ)っ汁をぶっかけ/憂鬱(ゆううつ)をかみころしながら/荒れはてた泥っ田に/血と、忍従の赤黒い線を引いて/黙々といそぐ…(原文)。

 31年の同人誌に掲載された「血飛沫(ちしぶき)の田圃(たんぼ)で!」の一部だ。困窮の姿を赤裸々な表現で描き、高い評価を受けた。だが、自費出版した詩集は時代を痛烈に批判したことで発禁処分になり、自身も投獄された。晩年は故郷の小学校の校歌を作詩するなど古里への思い入れも強かった。

 五十回忌を機に地元で顕彰する動きが起きた。呼応して同市図書館が発禁本を復刻。来月、市内で朗読会もある。「定村の思いや功績を見直したい」と主催者。没後半世紀を経て作品に光を当てる活動を見守りたい。 (佐伯浩之)=2017/11/28付 西日本新聞朝刊=」

発禁本がまた出てきそうな世相ですが・・・。


by kibouh1 | 2017-12-18 05:21 | 歴史 | Comments(0)