気ままなつぶやきです


by kibouh1

カテゴリ:歴史( 23 )

三池藩の幕末は

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筑後3藩でも 勤王の志士や新撰組などに参加した人たちがいます。三池藩が新政府軍についたことは知りませんでした。興味深く読みました。

「幕末維新 翻弄される筑後3藩大名家

三池藩 主戦派から新政府へ

柳河藩 関東出兵に悩み書簡

久留米藩 血の粛正「殉難十勇士」

幕末維新史で一般に取り上げられやすいのは、九州の諸藩では、まず薩摩、佐賀である。一方、福岡は勤皇派の大量処分で知られ、小倉は領地が戦場となり城を焼いた。外様3藩があった現在の福岡県筑後地方はどうか。さらに影が薄い。 その筑後地方の各市で現在、幕末維新展が聞かれている。各展示からは、大河ドラマなどには出てこない 時代に翻弄された大名家の姿が見えてくる。

3藩のうち、政治の中枢にいたのが三池藩。現在の大牟田市の南半分と下手渡 (福島県伊達市)に領地を 所有していた。藩主の立花種恭は文久3(1863)年に若年寄として幕府の外交や財政を支え、王政復古後の慶応4(1868)110日、老中格兼会計総裁になる。大牟田市の三池カルタ・歴史資料館に展示中の「老中日記」には若年寄に就任した文矢39

から明治2(1869)1月までの出来事が記され、三池藩の動向だけなく、幕府側から見た幕末史の貴重な資料となっている。同館の梶原伸介館長によると、種恭は主戦論者だったが、幕府の中枢にいてさまざまな情報が集まるため、情勢判断に慎重になっていく。慶応421日 に幕閣を辞した後も家臣を上京させて情報収集に務め、翌月佐幕と新政府の間で揺れる領内沈静化のために下手渡に行った後、京都に戻り新政府側につく方針を固める。梶原さんは「日記から種恭が独自に判断した」とみる。三池藩が新政府側につくと、下手渡の陣

屋は同年8月に奥羽列藩同盟の攻撃を受け焼け落ちた。(以下略)20181120日西日本新聞」


by kibouh1 | 2018-12-26 06:09 | 歴史 | Comments(0)

力の150年では

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有史以来明治まで日本は戦争とはほとんど関係しないできたという。白村江の戦い、秀吉の朝鮮半島への進出などしかないという。明治150年は日清・日露・日中・日米などが150年の間に繰り返されています。

「明治150

政府の自賛一辺倒懸念

日本女子大教授 成田龍一氏

「明治150年」を記念する政府の式典で安倍晋三首相が式辞を述べた。その内容は、西欧に比べ旧作に近代化を成し遂げたことを日本の特徴に挙げた上で、明治時代の豊かな人材によって土台がつくられたとした。一方で、少子高齢化、グローバリゼーションが急速に進む今日を危機的状況にあるとし、再びの結集を呼び掛けている。この国の歴史を称揚、自賛していると総括できるが、その一面性に危うさを感じる。

安倍氏は20158月に地元の山口市内で開かれた「内閣総理大臣を囲む会」で、明治50年の首相が寺内正毅、100年が佐藤栄作で共に山口県出身であることを紹介、150年を首相で迎えることに意欲を示した。翌年には内閣官房に「明治150年」関連施策推進室を設置している。今年の「年頭所感」でも「明治日本の新たな国づくりは、植民地支配の波がアジアに押し寄せる、その大きな危機感と共に、スタートしました」と述べている。歴代首相の中でも明治150年、維新への思い入れは強い。(以下略)」(2018114日西日本新聞)


by kibouh1 | 2018-12-18 06:03 | 歴史 | Comments(0)

大宰府史跡の全貌は

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発掘は続いていますがまだ多くのことが未解明です。

「「大宰府の条坊」新説紹介 九歴で史跡発掘50年特別展 [福岡県]

 大宰府史跡発掘50年を記念し、大宰府の碁盤の目状の区画「条坊」の新説を紹介した特別展「大宰府への道-古代都市と交通」が、九州歴史資料館(九歴、小郡市)で開催されている。太宰府市教育委員会の井上信正主任主査が、10年前に提唱した説を基に復元したパネルを展示している。6月17日まで。

 条坊を巡っては、九歴初代館長を務めた故鏡山猛九州大教授が1968年の発掘開始前に著した「大宰府都城の研究」の中で「大宰府は政庁南北中軸線を境に左右両郭があり、南北22条、東西各12坊の条坊制(条坊1区画は109メートル四方)が施行されていた」と説明しており、これが発掘調査の基準とされてきた。

 ところが発掘が進むにつれ、想定していた条坊と実際の遺構が合わないことが判明。井上主査は、大宰府発掘40年シンポジウムで「大宰府条坊は南北22条、左郭12坊、右郭8坊で条坊1区画は約90メートル四方」とする新説を打ち出した。(以下略)=2018/05/03付 西日本新聞朝刊=」

大宰府政庁跡の西側の蔵司地区もまだなんの施設か分かっていません。西鉄二日市駅近くの客館跡も鴻臚館との役割分担を含めて明らかになっていません。専門家でない歴史好きにとっては今後が楽しみではありますが。


by kibouh1 | 2018-05-11 05:21 | 歴史 | Comments(0)

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縄文のことが語られるようになってきました。新しい発掘などがあると思いますが、次のような指摘があります。

「縄文ルネサンス② 古谷嘉章

岡本太郎という先駆者

縄文VS弥生 提示された対置構図

近年になって縄文ルネサンスが到来するまで、縄文 文化は博物館の考古学展示室や歴史教科書の最初の数ページの中にひっそりと蟄居していたのかというと、そうとも言い切れない。敗戦から復興しつつあった1 950年代に、前衛芸術家プラス総合文化ブロデュ一サーともいうべき岡本太郎によって、縄文土器が荒々しく現代社会の只中へと引きずり出されたことがある。 1951年の暮れに東京国立博物館で展示されていた縄文土器に遭遇して、「な んだこれは!」と叫んだ岡本の主張を一文に凝縮すれば、いままで日本の伝統だと思わされてきた稲作農民の弱々しい弥生文化に代えて、狩猟採集を生業とした縄文人の荒々しく逞しい根源的な美を現代社会に取り戻し、それを日本固有の伝統として世界に推し出していかなければならない、というものである。この宣言に対する考古学界や美術工学界の反応はあまり好意的なものではなかったようだ,が、「縄文VS弥生」という構図は、それ以降、さまざまな領域で使われるようにとなる。

例えば建築界では、西洋近代建築が席巻するなかで、じつは桂離宮に代表される伝統的な美こそがモダンなのだとする言説が長く支配的だった。ところが1950年代になると、そうした洗練された建築美を「弥生」と名付け、それとは異質な「もうひとつの伝統」 としての縄文に与する発言が登場してきた。(略)

「日本の誇る伝統としての縄文文化」という言説は、基本的に戦後のごく新しい発明なのである。岡本太郎はその後、大阪万博のシンボル『太陽塔』を作り、テレビで目を剥いて「芸術は爆発だ!」と叫んでいたが、1996年に亡くなった頃には世間からほとんど忘れられた存在だった。ところが、養女となった「太郎巫女」たる岡本敏子の奮闘により、晴々しい復活を遂げる。絶版だった本が何冊も復刊され、民俗学や美術史学の論客たちが競うように「太郎論」を 出版し生誕100年の展 覧会が催されといった具合 だったが、そのハイライトが、メキシコで制作したの ち行方不明になっていた壁 画『明日の神話』の再生で、 今河川渋谷で行き交う人々 を牌脱している。(以下略)」(201837日西日本新聞)

1万年余も続いた歴史が一様なのかどうか。解明されるかもしれません。


by kibouh1 | 2018-05-06 05:58 | 歴史 | Comments(0)

縄文の再評価は

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縄文時代は1万年程度続いたという。その暮らしが徐々に明らかになっているという。

「縄文ルネサンス ① 大転換の始まりか

現代に活かす価値を探して

展覧会をきっかけに  

古谷喜章 九大教授

いま縄文ブームが来ている。いやブームというよう一過性のものではなく、「縄文ルネサンス」とさえ呼びうるような大転換の始まりかもしれない。ヨーロッパのルネサンスがそうであったように。そう言うと、たいていの人は狐につまれたような気分だろう。 ごく平均的な日本人は、 大陸から稲作がもたらされて弥生時代が始まる前に人びとは狩猟採集で暮らしていて、縄目の文様を施した土器を作っていたことくらいは授業で教わったとしても、縄文人のイメージと言えば、毛皮をまとって、石斧や弓矢を手に野獣を追いかけている「原始人」といったものなのではないか。

しかしそんなイメージが実像とかけ離れていることか、1992年から発掘が続いている青森市の三内丸山地跡など各地の発掘調査で明らかになってきた。一口に縄文時代といっても、弥生時代が始まる紀元前数百年まで約1万年間続いたのでし、一括して何か言うのは難しいのだが、定住が始まり、所によってはかなりの規模の集落が長期にわたって存続していたこと。水稲耕作はしなくても、クリ林など自然資源を管理して利用する安定した生活を営んでいたこと。独創的デザインの高品質の土器を製作する技術をもっていて、しかもその土器は世界でも最古の部類に属するものであること。精巧な耳飾りや漆塗りの櫛などの洗練された品々。意味や用途はまだ謎に包まれた2万点を超える土偶。沢山の石を周到に配列してストーンサー市 クルを築いて、そこで天体の運行に合わせた儀式などをしていた人々。つまるところ縄文人は、「原始人」というイメージとは程遠い人々であることが判ってきているのである。(以下略)」(201836日西日本新聞)

縄文時代の特徴としてイレズミがあるそうです。

「北海道では近代まで、アイヌの女性が成人儀礼として、口のまわりや前腕部に何度かに 分けてイレズミをおこなっていました(児玉ほか一九三九)。また南島でも近代まで、同様に 成人儀礼として、女性が前腕部を中心に足など体の各所に何度かに分けてイレズミをおこなっていました(小原一九八九)。」(『縄文の思想』 瀬川拓郎)

小学生時代だと思うがアイヌの人たちが来校し、踊りなど紹介した時に口の周りにイレズミをしていた人がいたと思います。記憶に間違いなければ。


by kibouh1 | 2018-05-04 06:00 | 歴史 | Comments(0)

すんなりと

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新聞の投稿欄からです。

「プロ野球年俸 あまりに高額  79

ホークスの柳田悠岐外野手が3年契約の年俸55千万円プラス出来高払いで契約更改したと報じられた。大変結構なことです。自由な資本主義社会です。他人の懐にけちをつけ

るつもりは毛頭ありません。ただあまりにも高額なので、何かすんなりとふに落ちません。「違和感」を覚えるのは私だけでしょうか。プロ野球選が活躍できる期間には限度があります。ある程度、年俸が高いのは当然でしょう。しかし、世間では正規社員で年収400万円台、非正規社員で は200万円台と聞きます。正規社員が40年働き退職金は2千万円程度です。夢を売るプロ野球、別世界のこととはいえ、世間と格差があまりにも大き過ぎでないでしょうか。観衆でもある庶民の勤労意欲をそがない程度に、バランス感覚を働かせてもらいたいものです。」(2018113日西日本新聞)

大リーグに比べたらとてもじゃないですが。それでも利益が出るという商売というのも・・・。

「桶狭間の戦い」を知らなくても、ダイナミックな動きを学べればという趣旨だと理解できます。歴史にどんな意味があったかを教えるかの論議になれば意味はあるのかも、

「歴史用語半減 学ぶ機会放棄  82

大学入試で問われる歴史用語が多過ぎる、暗記に偏っているとして高校歴史教育の重要用語を半減する案が教員の有志らから提起された。この案では「坂本龍馬」「吉田松陰」「武田信玄」「桶狭間の戦い」などが「重要ではない」と外されている。「大学入試で出題する基準」と前提はあるものの、先人の変遷、興亡の積み重ねである歴史を現代人(教師)が「不必要」と簡単に選別することは不遜と言うべきだろう。多くの歴史を学ぶ機会を失った学生が実社会に出て、坂本龍馬や吉田松陰、上杉謙信について「それ誰?習っていないから知らない」では困ることになるのではないか。確かに、働き方改革で教職員の労働時間の負担軽減は理解できる。だからといって「多すぎる用語」を口実によく知られた人物、事件まで教えないというのは歴史教育者の職務放棄と言わざるを得ない。」(同前)


by kibouh1 | 2018-03-30 06:54 | 歴史 | Comments(0)

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「加藤登紀子のひらり一言  20171126日朝日新聞

 ■Reライフ 人生充実

 考え事は、空の下を歩きながらがいちばん!

 風に吹かれると、本当の自分に出会えるから。

    ◇

 「歩くと頭が軽くなる」と言った人もいるわね。込み入ったことは気にならなくなって、大きな構想が浮かんだり、重大な決心がついたりする。」

毎日、1時間程度歩きますが、考える時間はありますが、考えがまとまらないのが難ですが。

定村比呂志という詩人を知りませんでした。

「デスク日記

 農民詩人で福岡県行橋市出身の定村比呂志(1912~68)をご存じだろうか。昭和初期の農民が搾取される姿を創作し、命の尊さを説いた。

 午前四時だと言ふのに-/砂粒のやうにガリガリな冷飯(ひやめし)に/味噌(みそ)っ汁をぶっかけ/憂鬱(ゆううつ)をかみころしながら/荒れはてた泥っ田に/血と、忍従の赤黒い線を引いて/黙々といそぐ…(原文)。

 31年の同人誌に掲載された「血飛沫(ちしぶき)の田圃(たんぼ)で!」の一部だ。困窮の姿を赤裸々な表現で描き、高い評価を受けた。だが、自費出版した詩集は時代を痛烈に批判したことで発禁処分になり、自身も投獄された。晩年は故郷の小学校の校歌を作詩するなど古里への思い入れも強かった。

 五十回忌を機に地元で顕彰する動きが起きた。呼応して同市図書館が発禁本を復刻。来月、市内で朗読会もある。「定村の思いや功績を見直したい」と主催者。没後半世紀を経て作品に光を当てる活動を見守りたい。 (佐伯浩之)=2017/11/28付 西日本新聞朝刊=」

発禁本がまた出てきそうな世相ですが・・・。


by kibouh1 | 2017-12-18 05:21 | 歴史 | Comments(0)

鴻臚館・蔵司

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太宰府市の古代政庁跡の西側部分に「蔵司」地区があります。発掘調査が続いていますが新たに2棟の発掘がされたという。名前から税務署的な役割だろうと言われてきましたが、確定した見解はないと思います。鴻臚館も迎賓館という定説ですが、税関ではないかという。

「迎賓館より「税関」の印象

福岡市博物館

「よみがえれ鴻臚館」展

古代国家日本の興亡見渡す

100年前に所在地が特定され、本格的発掘調査から今年で30年になる鴻臆館(福岡市中央区)は古代日本の税関的な役割も担っていたのか。福岡市博物館の特別展「よみがえれ・鴻臆館|行き交う人々と唐物」はそんな印象を与えてくれる。「古代の迎賓館」とも言われてきた施設の本質を考えさせる企画だ。前身の筑紫館が史料に登場するのは688年。9世紀 に鴻臆館と名が改まり9世紀末に文献から姿を消す。性格 も公的使節向けから貿易商人 (海商)が使う場所ヘ変わったとされる。それを示すように、鴻臆館出土の輸入陶磁器は、時代を下るに従い商人の姿が背後に見えてくる。まとまって出土した低品質の青磁(910世紀)、や海商に関係する「綱」の文字が書かれた白磁(日世 ・紀)は、宋の海商が活動し鴻 櫨館に代わり交易の主舞台と なった「博多遺跡群」の遺物と似ており、鴻臆館を訪れた 人々の変化を雄弁に語る。博多遺跡群が展示を締めくくっているのも象徴的だ。 京都や大阪などの外交関連 施設も紹介しているが、輸入 陶磁器などの数は「鴻踊館が圧倒的に多い」'(同博物館学 芸課の森本幹彦さん)。その 事実は、鴻臆館が貿易の場でもあったことを示すように思える。鴻臆館は律令制が導入されるなど中央集権的国家の形成期に登場した外交が行われずとも、本展に並ぶ唐物が物語るように輸入品へのニ一ズは続く。貿易の管理を行う機関としての役割を果たしたであろう鴻臆館の終駕は、国家の統制力弱体化を意味するのか。本展からは古代国家・日本の興亡も見えてくる(古賀英毅)」(2017106日西日本新聞)


by kibouh1 | 2017-10-29 08:52 | 歴史 | Comments(0)

動物は

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「対馬に野生カワウソ 38年ぶり、絶滅種か調査へ 琉球大が映像公開 - 西日本新聞」という。毛皮のために乱獲されたという。

「洞窟は隠れ家躍動する動物   74

夢を見ているようだつた。2万年も前の人類が目にした身近な動物が描かれているラスコー洞窟(フランス)だ。ねじれた長い角の牛は体が黒く、大きくて威圧的だ。馬は群れをなして駆けている。鹿は泳いでいるかのようだ。 こんな写実的な絵を残したのはクロマニョン人だそうだ。狩猟生活の彼らは日々の獲物の様子を実によく観察している。この「世界遺産ラスコ一展」(福岡県太宰府市の九州国立博物館、93日まで)で面白かったのは壁画.の見せ方だ。洞窟内がライトアップさ れると、動物たちがくっきり浮かび上がった。その瞬問、私は動物たちに追い回される錯覚に陥った。クロマニョン人の絵画技術に頭を下げた。不思議なのは、そんな彼らが自画像を残さなかったことだろう。私たちは両手を広げ、ひょろつとした死んだ男を知るだけだ。彼らは何より自分たちの命に欠かせない獲物に感謝し、その躍動する姿だけを懸命に描いたのだと思いたい。洞窟は絵描きたちの隠れ家だった。」(2017819日西日本新聞)

人類と動物は絶えず生活してきました。最近は動物にも生きにくい社会では。


by kibouh1 | 2017-08-23 06:04 | 歴史 | Comments(0)

磐井の墓

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中学生の時に先生に引率され、自転車で八女地方の古墳を見学しました。装飾古墳に入った記憶があります。

「王家の丘」でロマンに浸る

古墳ワールド八女丘陵を訪ねる

磐井の力強大さ実感

八女市吉田にある北部九州最大の前方後円 墳「岩戸山古墳」は墳丘の長さが約135メートルもあり、6世紀前半に筑後地方を拠点に権勢 を誇った豪族、筑紫君磐井の墓とされる。この巨大古墳をはじめ、八女市から筑後市、広 川町などにまたがる東西十数キロの八女丘陵には磐井一族などの古墳が300基ほどあったと考えられている。古代のロマンの薫りに誘われ、代表的な古墳を訪ねてみた。(泉修平)

小高い丘を登ると、静かに たたずむ深緑の森が姿を現した。だが、その森ですら古墳の一部でしかない。岩戸山古墳の大きさにあらためて驚く。

日本書紀や古事記に記されている古墳時代最大の内乱 「磐井の乱」(527年〉。筑紫君磐井は九州の豪族とともにヤマト王権の大軍と戦い、敗れた。どんな人物だったのか。古墳に併設する八女市岩戸山歴史文化交流館「いわいの郷」に向かう。 「同じ時代で最大とされるヤマト王権の継体大王の古墳と比べても、7割ほどの大きさ。それだけ磐井が強い力を 持っていたことを示している」。川述昭人館長が解説してくれた。

磐井の力を示すのは古墳の大きさだけではない。川述館長が航空写真を手に説明してくれる。後円部の北東側に43メートル四方の「別区」と呼ばれる広場がある。祭祀の場として 使用されていたといい、筑後 国風土記には、裁判官がイノシシを盗んだ盗人の罪を裁いたとの記述があったとされる。この古墳がこの地において、重要な役割を果たし続けたことの証しだろう。 同館では、岩戸山古墳をはじめ八女古墳群の出土品など 約180点を展示している。最大の見どころが石人、石馬をはじめとする巨大な石造彫刻だ。阿蘇の溶結凝灰岩を加工したもので、有明海沿岸地域を拠点とする多くの豪族の墓からも出土している。「細かな装飾は、まさに美術品」と川述館長。等身大やそれ以上の石人の迫力に圧倒され

た。

次に、岩戸山古墳から西に約3.5キロに位置する石人山古墳(広川町、筑後市)に向かった。この地域で最古となる5世紀前半から中頃の築造とされる前方後円墳で、磐井の祖父の墓という説が有力だ。 ここには、高さ180センチの武装石人が墳丘に立つほか石室に家型石棺が安置され おり、当時の姿に近い形で見学できる。武装石人はまるで石室を守っているかのように見える。他にも、興味深い古墳は多い。石人山古墳の近くにある 円墳、弘化谷古墳には装飾画があり、毎年春と秋に一般公開されている。同じく装飾古墳の乗場古墳(八女市)、 ほぼ完全な形の武装石人が12年前に出土した鶴見山古墳()・・・。(以下略)」

2017623日西日本新聞)

装飾古墳のきれいな姿が歴史への興味を抱かせたのかもしれません。

新聞のコラムからです。

「花 時 計

派手なメークでマイクを握り、権力にあらがったミュージシャン忌野清志郎さんが亡くなって今年で8年。中学3年だった私はテレビのニュースで流れた彼の曲を聞いてファンになった。繰り返し聞いたのは「明日なき世界」。破滅に向かう世界に警鐘を鳴らし、若者に「感じねえかよ、この嫌な感じを」と間い掛ける先日、「テロ等準備罪」新設に反対し、街頭運動をしていた団体を取材した。メンバーらは 「生きづらくなる世の中 にしてはいけない」と訴えつつ、こう肩を落とした。「でも若い人は政治にあまり関心がないみたい」国民の理解が広まらないまま法案を強行採決し、疑惑にふたをして国会が閉じた。「政治

家はいつもゴマカシばかり」。今、彼が生きていたらどんな曲を歌うだろう。(丸田みずほ)」(同前)


by kibouh1 | 2017-07-20 07:51 | 歴史 | Comments(0)