気ままなつぶやきです


by kibouh1

平和でありがたい

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201876日西日本新聞の戦争体験記からです。

815日境に暮らしが一変 86歳

父の仕事の関係で朝鮮の仁川に住んでいた。家族7 人で何不自由なく暮らして いた。毎日、朝鮮人が子守や庭の手入れに来ていたが、当然だと思って育った。 815日の終戦の日を境に生活が一変した。使用人だった朝鮮人たちが「ニッボン負ケタ。日本に帰れ」と言いながら、ラジオやミシンなどの家財道具を持ち去った。夜には朝鮮人の強盗が入り、父を柱にくくりつけ、たんすの中の物を盗んでいった。母や私たち子どもは恐ろしくて震え上がった。

1118日、引き揚げの順番が来た。仁川から着の身着のまますし詰めの貨物列車に押し込まれ釜山に向かった。釜山の日本人収容所で三日三晩待ち、やっと興安丸に乗り日月23日に山口県仙崎港に上陸。苦しく惨めな3カ月余りだった。帰国後も悲惨だった。父の仕事がないため収入はゼロ。食べる物がない。着る物もない。ノートも鉛筆もない。あわれな生活が続いた。幼いころの写真の1枚も、小学校のクラス写真や通知表もすべて置いてきた。思い出の品は何もない。いま寂しい老後を生きている。

子どものころ戦争があった。13歳の少女の人生も戦争に翻弄された。今は平和でありがたいとつくづく思う。」

「友にささげる 鎮魂ステッキ  69

戦争資料館を開設して一年になる。4年前、隣町のご婦人から「父の形見のス テッキです。役立ててください」と寄贈を受けた。長さ1M、黒茶色の一見何の-変哲もないステッキ。実は、こよりで作られたものだった。数カ月かけて作られた。一父上の存命中、時々大事そうにステッキをなでておられたそうだ。父上は激戦地のソロン島から運よく生き残り、無事故郷ヘ復員された。戦友のほとんどが戦死。その中の1人で、無二の戦友が足を負傷し、父上が肩を貸しながらジャングルを敗走したが体力が限界に達し、やむなく置き去りにするしかなかった。戦友は餓死した。復員後、どうしてもその戦友のことが心にひっかかった。鎮魂の意を込め、時間を見つけては縁側で黙々と木材の芯にこよりを丁寧に巻きつけて原型を作り、黒茶のニスを塗り、1本のステッキを完成させた。今、ステッキは資料館の片隅にひっそりと立っている。」


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by kibouh1 | 2018-09-26 09:39 | 平和を | Comments(0)