気ままなつぶやきです


by kibouh1

現地の人は 

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2018427日西日本新聞の戦争体験記からです。

「外地引き揚げ 悲しい逃避行 81

大正、昭和、平成と生き抜いた義母が3月、102歳 の生涯を終えた。最後まで平和な世界を夢見ていた。義母は義父の勤め先の関係で北朝鮮の北部チゴリで一家7人、幸せに暮らしていた。しかし終戦直前、ソ連軍侵攻のため徒歩で釜山ヘ向かった。食料もなく、現地の人々から恵んでもらうわずかな食べ物を家族で分けたが、栄養失調と疫病で5人が亡くなった。墓標を立てる間も、悲しみに暮 れる間もなかった。貧しく 悲しい逃避行だった。 やっとの思いで釜山に着いたが日本に渡る正規の船はなく、ヤミ船でたどり着く。戦場の露と消えた多くの戦死者もいたが、義母のように外地から引き揚げざるを得ず、困難極まる体験も戦争の犠牲者である。近代史を十分理解できてなく主観的に把握し、右傾化している若者がいる。政治家も戦後生まれが多く、 与党に右傾化が目立つよう になった。もの言えぬ時代 に逆行しないよう、われわれが常に監視すべきだろう。これも義母の切なる願いだった。」

13歳の春休み 駆逐艦で訓練  86

私は軍の基地があった長崎県佐世保市で産声をあげた。昭和19年、旧制中学に進学したが勉強は1学期のみ。2学期からはほとんど毎日が第2予備軍隊としての育成だった。配属将校のA 指揮の下、軍人勅諭の教えに倣い木銃を持ち匍匐前進、喊声を発して突撃する教練や食糧確保のため農耕作業、強制的に集団疎開させられた家屋の電線撤去など勤労動員に明け暮れた。特に思い出すのは昭和203月下旬、春休みを利用駆逐艦「柳」で行った1週間の新兵教育。13歳だった。起床ラッパで起こされ、戦時帽に服をまとい、海図の見方、操舵術、短艇・伝馬船どのこぎ方、甲板掃除など分刻みの軍事講習。神国日本は神風が吹く、本土決戦では1億総特攻で必ず勝つと、洗脳され、教練に励んだ。今は空襲警報におびえることも食に飢えることもない。多数の犠牲者の上に築かれた平和な日本が永遠に続くことが慰霊になると信じている。」

「連隊旗迎えた現地人の心は  90

ラッパの吹奏と軍靴の響きが大きく聞こえるようにになった。前日、局長から指示が出た。「順天に陸軍の連隊が駐屯する。あす全羅線OO分順天着で兵とともに軍旗(連隊旗)が来る。各課12人を残して奉戴するように」。予定の1時間前、指示された順天橋付近に整列して待った。駅から駐屯地まで2キロくらいだろうか、沿道には小中学校、女学校、各職場の職員、順天在住の邦人、現地人も奉戴するために並んだ。 4人の兵に守られて、少 尉が奉ずる軍旗が目の前に 来た。課長の号令で最敬礼 し直立不動で通過するのを 待った。軍旗は天皇陛下であると教え込まれていた。戦時中、私たち日本人はそれは当たり前のことだったが、現地人の心境はどうだつただろうか。朝鮮人小学校の先生、各職場の現地人・:今思うと、あれが戦争であると思わねばならない」


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by kibouh1 | 2018-07-01 06:06 | 平和を | Comments(0)