気ままなつぶやきです


by kibouh1

特攻兵は志願だったか

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「海軍も陸軍も、自分達の一番の身内であり、中枢である海軍兵学校出身者と陸軍士官学

校出身者を戦争末期になれば、なるほど、なるべく特攻に出さないようにしました(それでも、陸軍の方が比較的士官を出しました。海軍に比べて、航空戦力の重要性と熟練操縦者の価値を深く理解していなかったからではないかと言われています)

洗脳

特攻が「志願」だったのか、「命令」だったのかという問いかけの時に、司令官ではなく、隊員達が書いた多くの手記は、「志願」の形をした「命令」だったと断じます。(一部引用)

(「不死身の特攻兵」)

誰も責任をとらない仕組みになっていたのでしょうか。

201832日西日本新聞の戦争体験記からです。

「大学ノートをくれた学徒兵   83歳

福岡・大刀洗飛行場が昭和203月の空襲で壊滅的な被害を受けた後、多くの兵隊さんが私たちの集落ヘ疎開された。集会所や神社の社務所が兵舎代わり。個人の家も宿舎になった。

私の家も8畳の間に45人の下士官が寝泊まりされた。私は母と2人の母子家庭だったのでうれしく思ったものです。そんなある日、10人ほどの若い学徒兵が来られ、明日福岡に集結するので一晩泊めてもらいたいということでした。部屋もなく納屋にむしろを敷いて雑魚寝されたと思います。その夜、1人の学徒兵が私と母の所に来られ「もう要らなくなるから」お礼に1冊の真新しい大学ノートを渡されました。ノートも教科書も手には入らない時代です。私が5年生と言うと「しっかり勉強するんだよ」と励まされたことを鮮明に覚えています。人に優しい心を持つことの大切さをこの時、教わった気がします。 その後の消息は知る由も ありません。今はあの若い 学徒兵の方々が無事で戦後を迎えられたことを願うば かりです。」

「成長期の飢餓 今もトラウマ 83

敗戦間近、私の郷里佐賀市も焼夷弾の空襲を受けた。当時、わが家は類焼遮断と避難路確保のため家屋の取り壊しが決まり借家 住まいを強いられていた。玉音放送は国民学校5年 の夏。悔しかったが「わが家に戻れる」と喜んだ。 数日後、「米軍が長崎・ 佐世保に上陸した。女子と子どもは避難を」のうわさが飛び交った。父と兄は残留、姉と私は母と共に山村の遠戚に避難を決めた。徒歩で5時間、炎天の昼間を避けて夜行を選択、にぎり飯を準備した。しばらくして警察が「デマ」と発表し、一件落着。作ったおにぎりを頬張った。

その後復員や外地からの引き揚げ家族が急増、深刻な食糧難に直面した。庭の片隅でカボチャなどを栽培、飢えをしのいだが、育ち盛りの飢餓体験は今でもトラウマになっている。

安倍首相を含め戦後生まれの議員が圧倒的多数を占める今、戦争の悲劇をしっかり学習してほしい。」(同前)


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by kibouh1 | 2018-06-02 06:06 | 平和を | Comments(0)