人気ブログランキング |

気ままなつぶやきです


by kibouh1

戦争体験の話 続き

f0239450_11314041.jpg

「転属前の兵隊 家でもてなす 80歳 

戦局も大詰めに近づきつつあった昭和19年暮れ。 当時、私たちは朝鮮半島の光州市に住んでいた。敵機もめったに見ることはなく、一見平和に暮らしていた。しかし、戦局は日に日に悪化。近くに駐屯する陸軍飛行部隊から、前線に転属する兵隊さん45人を日曜ごと広家庭に招き、もてなすようになった。家庭の雰囲気を味わい、くつろいでもらうのが目的だ。わが家もそれに選ばれた。昭和20年になると訪れる 若いお兄ちゃんたちの顔ぶ

れが毎回、入れ替わるようになった。転属先が九州方面らしかったことを思えば「特攻要員」だったのか・・・理不尽な死を前にしても、彼らの顔から苦悩の気配は感じられなかった。心奥底は計り知れないが

生きていれば、どんな素晴らしい人生を送ったことであろうか。こんな若者たちを私たちは二度と戦場に送り出してはならない。合掌。」(2016122日西日本新聞)

寒さに耐えた 教室と山登り  82

戦時下の教室は当然ながら、冷暖房なしの「自然塾」。そのうえ、冬は下履きもないので、ほとんどの生徒は素足のまま、勉強していました。両の手足をこすりながら我慢、我慢です。そうなると、授業をいったん中止。体内からの「暖」を呼び起こす「天突き運動」をするのです。

それでも「寒い」と弱音を吐こうものなら「戦地の兵隊さんのことを考えろ」と一喝されて終わり。「ぜいたくは敵だ」と全てに、この一言で黙らされたものです。

冬は山登り。工作の時間に作った草履2足を持ち弁当半分、草履1足を途中のお寺に預けて山頂を目指し、腰近くまで積もった新雪の中、素足に草履でアタックした。下山後、お寺で履き替えた草履のぬくもりは、今もって忘れ得ぬものです。誰一人、落後する者もなかった。遠足とは言わず「雪中行軍」と呼ばれていた。」(同前)

「「片道燃料で」 散る赤トンボ  82

「赤トンボ」。戦争中は 練習機をそう呼んでいた。戦局が厳しくなってきたころだったか、裏山で赤トンボに、兵隊さんが爆弾を付けていた。そばで見ていた私たちに「片道燃料でバイバイ」と、歌うように話した。爆弾はネジで締めつけ、落ちないようにしていた。小学生ながら、何かしら嫌な思いがした。なぜだか、分からない。「勝つ」と言ってよいが「負ける」とは口が裂けても言つてはならなかった。兵隊たちは厭戦気分になっていたようで、もう以前の軍隊ではない。爆弾を付けた赤トンボはいなくなった。そのうち終戦の815日が来た。慌ただしい日が続いた。別の赤トンボが集められ、一列に並べられた。火を付けられたあの光景は、今でも思いだす。

あの赤トンボは飛ばず済んだ。飛んでいなければ、その分の命が救われたことになる。子どもの目で見た戦争、耳で聞いた戦争。「片道燃料でバイバイ」は今も耳に残っている。」(同前)


by kibouh1 | 2016-07-30 05:29 | 平和を | Comments(0)