気ままなつぶやきです


by kibouh1

戦争体験を語り継ぐ

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西日本新聞が長期にわたって随時掲載されています。

「遺品収集28 亡父に近づく  66歳

戦争体験者が年々減る、 先の大戦も風化しつつあります。父は無事、復員してきましたが、子どものころに戦争の話を一度も聞いたことはありません。目の前の父と軍刀を差し、軍馬にまたがる軍服姿の写真の父とが同じとは思えず、とても不思議でした。大人になり、父の戦争に少しでも近づこうと始めた戦時遺品収集。この28年間で、今や各地の資料館にも劣らない量となりました。現在では見ることもない、珍しい戦時遺品の数々は将来の宝。倉庫に眠る遺品は戦時のまま、時が止まっています。父が体験した戦争を知りたいという思い。それが遺品収集の原点のような気がします。戦争を知っている亡父。一方、それを知らない私。あらためて遺品を見つつ、平和はありがたいと思う昭和の日」です。」(2016429日西日本新聞)

「孫娘の名前はわだつみから  79

孫娘の名は「海音」。大学2年で米国に留学中。第2次大戦で学徒出陣した戦没学生の手記遺稿集「きけわだつみのこえ」にある「海神(わたつみ)」から採った。娘が妊娠中、夢の中でこの名を付けよと告げられたという。その手記には「ながい悪夢のような大行軍は愛と美しいものに見放され、誰からも忘れられて夜の中に消え海に散る」と。また「昨日恋し、今日悩み、明日死す」とも。「勇にしかも慎重に死んでみせる」とあり、涙なしでは読めません。

兄も出陣で特攻、沖縄で戦死した。17歳だった。永井隆博士の「この子を残して」原爆病の父が幼子の行く末を案じた本。また戦後、船が触雷し、長崎・対馬の海岸にたくさんの遺体が流れ着いたこと。これらを孫に話すと「心に留めておかんといけないね」と言ってくれる。これらこそ、多くの戦死者からの「次世代への伝言」だ。米国で世界の情勢を学

び、次世代を担う存在となってほしい。何となく胸騒ぎのする日本の昨今。平和がいつまでも続きますように。」(同前)

「引き揚げ者の 現実は厳しく   83

空襲、疎開、食料難、引き揚げ・・・多くの戦争体験を した。その中に、今なお心痛む思い出がある。戦後、台湾から引き揚げて田舎の女学校に編入した時のこと。各地からの引き揚げ者で1クラス80人ほど。体育館も音楽室も全て教室として使用された。同じ引き揚げ者の彼女と親しくなった。女学校で学ぶことは当時、現在の高校よりもエリートコースだった。当然、彼女は外地で裕福な暮らしをしていたであろう。しかし、引き揚げ者の現実は厳しく、間もなく彼女は退学していった。生活を支えるためか、住み込みのお手伝いさんになった。その後、不幸にも彼女は住み込み先でアイロンの不始末から火事を起こし、

裁判になってしまった 私たちは裁判所に行つ た。そのときの低くうなだれた彼女の後ろ姿。今も目に浮かんでくる。」(同前)

「司令部跡洞窟不条理の爪痕  66

私は長い戦争の時代が終わってわずか4年後の生まれである。日本は1894 年の日清戦争から1945年の太平洋戦争終結まで、50年の多くを戦争に費やしてきた。私の住む福岡県筑紫野市は太平洋戦争末期、当時の政府、軍部が本気で本土決戦を考えていた場所だったことが分かる。私が子どもの時、近所に広い敷地に木造校舎のような廃屋が5 6棟立っていた。私たちはここで戦争ごっこなどして遊んでいたがここが戦争末期、敵の空襲から目をそらすため、丘陵地帯を造成してひそかに造られた兵器工場であったことを市の歴史資料で知った。

山家地区の宮地岳(標高339M)の南側山麓には巨大な洞窟が掘られているのを散歩の時、目にした。これは「西部軍司令部跡洞窟」である。近くには西鉄筑紫駅があり、ここを米軍の戦闘機が機銃掃射。電車に乗っていた多くの民間人などが死傷した。今思うと、戦争とはあまりに愚かでばかばかしく、不条理の限りである。」(同前)


by kibouh1 | 2016-06-07 05:45 | 平和を | Comments(0)