気ままなつぶやきです


by kibouh1

加害者の悔い

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「花時計

福岡市博多区の東光中は、生徒が教室内を自由に動き回り、互いに教え合う「学び合い」と呼ぶ 授業を実践している。教員は、解き方を説明する時間を数分にとどめ、子ども同士の交流を促すコーディネーター役に徹しているという。中学1年の数学の授業を見学した。生徒たちは悩んでいる子に解き方を教えたり、理解できない部分を 尋ねたりしていた。生徒からは「先生に質問しづらくて、分からないことをそのままにしていたこともあったが、今は納得できるまで友達に聞けて授業が楽しくなった」との声も。普段は教えるこ

とが多いという男子生徒(12)は「(自分が)教えた友達が、自分よりも詳しく説明できたときが一番うれしい」。学び合いは、学習意欲の向上以外の成長ももたらしているにようだ。(国崎万智)」(2015722日西日本新聞)

米軍の捕虜を殺害した事件が福岡にはあります。油山事件は1945810日、現市営火葬場近くの雑木林において、日本軍がアメリカ軍捕虜(B-29搭乗員8人)を斬首にて処刑したものと、ここで紹介されたものです。

「父親たちの悔恨の形

慈悲深いのか、物憂げな のか。古びた小さな地蔵が 福岡市街を見下ろす油山にひっそりと置かれている。油山事件とは別に、市内で起きたもう一つの捕虜虐殺事件と関わりがあった。連合国軍総司令部(GHQ)の調書に、冬至堅太郎陸軍中尉の供述がある。

〈将校達に申しました。「空襲に依って母を殺されました。処刑されるのなら私にさせて下さい」〉

1945620日、福岡大空襲から一夜明けた陸軍西部軍司令部の裏の敷地 (現赤坂小学校)で米兵8人が斬首された。うち4人に冬至中尉が軍刀を振り下した。上官に命じられた

油山事件の故中島徳美さんと異なり、自らの意思で

63年か64年ごろかな。 突然、おやじが地蔵を庭に置いたんです。数カ月して1体、また1体と・・・」長男の哲也さん(71)=福岡市=によると、全部で4体だったという。あやめた捕虜と同じ数だった。死刑に値することをしてしまった。思い詰めた父は終戦直後、油山観音の住職に自決すべきか、相談した。生きろと諭され、GHQの取り調べ広応じる。判決は死刑。自宅の庭に地蔵を置き始めたのは、減刑になり釈放された後だった。 父は地蔵について家族に何も語らず、米兵を弔うものだったかは分からない。最後は油山観音に託し、83年に68歳で亡くなった。

油山事件と同様、慰霊の法要や碑があるわけではない。それでも哲也さんは30年以上たった今も、地蔵とともに父が関わった事件のことを忘れていない。「悔恨があったのでしょ

う。反省をどう表現するかは人それぞれ。形あるものだけではないと思いま す」

中島さんにも4人の息子がいた。火災の不幸に見舞われた直後の711日、記者の私は、長男の伸武さん(66)=福岡県大野城市、四男の茂生さん(58)仙台市=と面会した。伸武さんは幼いころ、東京の巣鴨拘置所で金網越しに見た父の姿をかすかに覚えていた。茂生さんは、B C級戦犯だった父の過去を 私の口から初めて聞いたという。獄中手記のコピーを 見ても、自分の知る父と重ねるのに苦労しているようだつた茂生さんは父の胸の内をおもんばかり、言った。「自分もおやじの立場だったら、息子にそんな話はできない。それでもずっと記憶にあった。だから、新聞の取材を受けようと思ったんでしょうね」一

昨年3月、本紙に載った戦争証言の募集記事を見て「私の体験が参考になれば」とはがきを送った。それが中島さんなりに考えた慰霊の形だったに違いない。」(同前)

油山事件の1人の中島さんは自宅の火災で亡くなりました。火災のことは近所でしたので人伝に聞きましたが、まさか、油山事件と関わりがあるとは。


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by kibouh1 | 2015-08-21 06:39 | 平和を | Comments(0)